【我々の政治的課題−2】
 オキュパイ運動に関する理論家として、アントニオ・ネグリが有名です。彼は、オキュパイ運動を既存のシステムの「外部」として措定し、彼らがそのまま、選挙戦などに参加することに反対しています。革命家であり、マルクス=レーニン主義の復権を目論む野心家であるネグリの立場として、その考えは分からないでもありません。だが、歴史を見れば分かるように、革命とは前時代との断絶のことであり、その現象はカタストロフであり、血まみれの出来事を意味します。敢えてそれを志向する大衆はどれだけいるのでしょうか? これは、第一次世界大戦のドイツの社会主義者の問いでもあります。一言で言うと、ネグリは(国家)権力の問題から逃げています。

 我々日本人は、ネグリに義理立てする必要は全くありません。日本流オキュパイ運動の中に、議員や官僚が入り込み、抱き込んでもいいじゃないですか。現に、ここのオフ会には、国会議員がいるじゃないですか。ここの場合はオフ会ですが、政治的討議をする場を、あちこちに設定し、議員、専門家、そして関心のある大衆——「学ぶ気があれば、学ぶであろう」という、レーニンの言葉を理解した筋金入りの素人——が集まり、討議する。そういう場を作ること。これが、我々の政治的課題だと小生は考えています。

 そういう場は、ロフトハウス、大阪恵美須町の討論バー、あるいは宗教絡みならVOWS Bar。うん、酒絡みだらけですね。いやいやいや、政策演説会や説明会をちょっと変えるだけで可能とも思えますね。政党の勉強会でも、そういうことが可能かも知れませんね。その時、政治家側が意識しなくてはならないことは、徹底的な双方向性と、素人の意見と、専門家の知識の尊重という態度ですね。

 我々の政治的課題を言い換えますと、それは「民主主義を革命すること」です。国家権力の構造を暴力的に変えることが、本来の意味での革命ですが、この革命は、もっと広く、深い社会革命です。民主主義は議会制民主主義に切り縮められ、大衆に疎外感を与え、選挙で多数派を選ぶという矮小化されたものに成り果てました。これでは大衆が政治的無関心=無力感に捕らわれるのは当たり前です。小生もそうですから。それを乗り越えるには、政治を身近に感じ、表出出来る仕組み作りです。

 民主主義が、大衆の欲望を拾い切れなくなり、大衆を疎外し、抑圧し出すことがあからさまになるとき、要は、社会の伸びに追いつけなくなったとき、革命、すなわち革命的暴力は現実の問題として突き出されることでしょう。それに対応することの出来る何かがなければ、我々は各種の反革命の地獄に突き落とされることでしょう。民主主義への絶望と共に。革命と民主主義は対立概念ではなく、光と影の関係にあると小生は考えています。一言で言うと、「党」というか、「組織」は民主主義のため、あるいは革命のための力の集約点として必要だと考えています。あらかじめ革命を否定するようなものは、革命的情勢において、確実に反革命に転化することでしょう。悪名高い社民要撃論も、見方によれば正当な理論でもあるのです。ローザを殺したのは社民でした。
(続)