【ロシアの社会主義運動−8】

 憲法制定会議のことは、トロツキーの回想でも非常に軽く扱われる程度のもので、今更これを以てレーニンの非民主性を云々することは、小生にとっては軽蔑の対象に過ぎません。そんな上部構造のことより、もっと恐るべき地獄が迫ってきます。経済破綻です。

 

 社会主義革命、共産主義革命と言えば計画経済へ経済システムを変えるというイメージがあります。合理的で理性的で無駄のない計画経済は、無政府性を伴い、非合理な市場経済よりも優れていると考えられていました。この考え自身がいかに非合理かは、色々と論じられていることですが、ともかくもそういう方向が社会主義・共産主義だと考えられていたのは確かです。但し、私見ですが、革命直後のレーニンは全般的な計画経済に進める条件があるとは考えていなかったと思います。だが、戦争で荒廃したロシア革命直後の状況は、市場経済の条件があったともいえないようです。工場も交通もボロボロで、工業製品は量も質も購買されるに値するものではありませんでした。農民には「市場原理では」農産物を売る理由がありませんでした。新政府の貨幣には信用がなく、機能しませんでした。このままでは都市の労働者は餓死します。とはいえ、先に見たように農村も人手不足などで疲弊していました。レーニンは、そのような状況で急進的な「共産主義的」政策を取らざるを得ませんでした。都市の労働者のために食糧を農村から強奪する「計画」を立て、武力でもって実行することになりました。極端な話「都市の労働者を殺すか、農村の農民を殺すか」という選択で、後者を殺すことを選択したのです。悪名高い食糧調達は次の年の収穫のための種もみさえ強奪するという凄まじさで、供出しようにもそれさえない農民は「みせしめのために」富農として処刑されるありさまでした。戦時共産主義として知られる、内戦期のレーニンの急進的な政策の背景には、このような荒廃がありました。今回は細かくは触れませんが、ソビエト革命政権が行なった外資へのデフォルト宣言、対ドイツ戦争離脱などで英仏は激怒し、特にイギリスは革命への干渉戦争を引き起こすという困難もありました。それにとどまらず、日本などもソビエト圧殺に加担していました。一方、レーニンはこの戦時共産主義を激烈に進めることで共産主義に至ると考えていた節がありました。

 

 さて、農民の味方たらんとしていた社会革命党左派はレーニンの農民殺し政策に激怒し、一部はレーニンの殺害を決意しました。諸説ありますが、筋金入りのテロリストにして革命家として名高いファニー・カプランは農民への苛斂誅求が始まった一九一八年八月にレーニンを狙撃します。レーニンは一命をとりとめますが、この時の傷と、苛斂誅求政策の精神的負担により、五四歳の若さで逝去することになりました。また、この事件により連立政権を支えていた社会革命党左派も弾圧され、実質壊滅します。このようにして、ボリシェヴィキ独裁が起こります。

 

 レーニンの革命は農民殺しを引き起こしただけでなく、ボリシェヴィキ独裁以降、労働者の反発が高まります。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」。ロシア革命の精華とまで謳われた、クロンシュタットの労働者は「ボリシェヴィキのないソビエトを!」と叫び、決起します。この決起は、「命令に背いた将兵はその場で処刑する」という命令が発された軍隊によって鎮圧されます。軍隊にもクロンシュタットへの同情心が高まっていました。

 

 何かここまで書いていたら、どうしてソビエトが維持できたのか不思議なほどです。しかし、結局のところ、ロシアの農民は外国や旧体制を代表する反革命軍に支持を与えませんでした。結局のところ、農民は外国人を信用できず、旧体制の残酷さを知っているので、「それでもなお」ボリシェヴィキのほうを消極的でしょうが支持しました。そして、レーニンは内戦に勝利しつつあった段階で、農民に譲歩しました。ロシアの工業も復活しつつあると見込んだ状況で、市場経済の部分的復活を図りました。いわゆるネップが発動されたのです。

(続)