【ロシアの社会主義運動−7】

 まず、戦争に突入して数年、ロシアでは経済が破たん寸前になっていました。とはいえ、最初に取られた手段は、銀行の国有化、企業のシンジケート化、要は後に社会主義化=国有化=計画経済と考えられる方策の一歩を踏み出すに過ぎませんでした。「記帳と統制」という言葉で知られる方策は、当初緩いものでしたが、しかし、そんなことでは破綻しつつある経済状況を好転させることは出来ませんでした。何しろ、工場は麻痺しており、農村に提供できるものがなければ、市場経済が残った中で、どうして農村は都市に食糧を供給するのでしょうか? この悲劇は後でまた触れます。

 

 次に、平和についてドイツとの講和をレーニンは求めますが、ボリシェヴィキ内部にもそれに反対する人々がいました。成功した革命を、ドイツの軍が蹴散らすのではとレーニンの反対者が考えるのも理由のないことではありません。ドイツの力を利用したフランスのティエールに蹴散らされたパリ・コミューンのことを思った革命家もいたと思います。ドイツは脆弱な革命政権の足許を見、結局はソビエト・ロシアにとって不利な講和条件を突き付けますが、情勢が煮詰まり、戦争継続はソビエトにとってあり得ない選択であると判断したレーニンは講和条約を飲みます。多くの領土がドイツのものとなり、多額の賠償金を払う約束をし、そして多くの地域がロシアから独立しました。レーニンがドイツの用意した封印列車で帰国した経緯もあり、レーニンは売国奴であるという憤りは他党派に湧いてきても不思議ではありません。

 

 また、土地の布告は社会革命党(左派)を丸のみしましたが、当の農民は「良きツァー、良き地主がいてこそ!」という意識が強く、革命政府の布告は「自分たちの好きなように、とはふざけている」ようにしか思えませんでした。要はボリシェヴィキ主導のソビエトは得体の知れない存在として農民に立ち現れたのです。

 

 問題はそれだけに留まりません。二月革命のとき、ロシアの近代化のために憲法を制定することが定められ、そのための会議が近い将来開かれることになっていました。会議のためには、議員が必要で、そのための選挙が行われるはずでした。選挙のためには、選挙人名簿が必要でしたが、この名簿が作られたのは十月革命以前のことであり、「ボリシェヴィキ?何それ?」と多くの人、特に農民が思っていた時に作られたものでした。だから、レーニンは名簿の再作成後に選挙を行なうべきだと訴えましたが、地方は「早く選挙をしろ」という声で満ちており、レーニンとしても無視できないほどでした。そして、「名簿通り」の結果が出たら、「ボリシェヴィキは少数派」という「現実」を突き付け、あわよくばレーニンを殺してしまおうという、政治勢力もいました。十月革命で閣僚が逮捕された党派であるカデットなどのことです。きわめて流動的な、革命的情勢では、結局のところ暴力がモノを言います。憲法制定会議は十月革命から間なしの一九一八年一月五日に開かれます。議長の選挙において予想通り右派が圧勝しました。レーニンを亡きものにしようとした連中が、大手を振って権力者の位置に復活したのです。革命的ソビエトが反革命的議会に道を譲ることによって革命の成果が消し飛ぶことを恐れたレーニンは、議場を後にし、宣言文をしたためます。

 

「立憲議会の反革命多数派は、旧来の議会の例をまねるばかりで、議会と労農政府の対立を明らかに目指している。我々は人民の敵が犯しつつある罪を一瞬たりとも分かつことを望まぬが故に、この議会から立ち去るものである」

 

 さて、他の左派も立ち去ろうとするとレーニンは叫びます。「何をするのですか。諸君が宣言文の朗読に立ち会って、一まとめに退場すれば、警備の兵士や水兵がいきり立って、社会革命党とメンシェヴィキを皆殺しにしてしまうことが分からないのですか。」全くの法措定暴力の段階では拳や銃弾がモノを言うようです。その場にいた議員の中には、レーニンによってメンシェヴィキの議員は生命を永らえたと言うものもいました。

 

 こうして権威も力も失った憲法制定会議は、このようにして開かれた翌日の午前四時半に終了しました。このことをもって、レーニンを反民主主義と批判する傾向があります。しかし、レーニンはこれに到る前に、様々な判断を下しました。それが拒否されて、このような事態になりました。また、憲法制定会議が大いに変わった大衆の意識を反映していないのに、民主主義の名でレーニンを批判するのはどうでしょうか。さらに言うと、ケレンスキーらは会議に合わせて反革命武装蜂起をやろうとしていたのです。革命とは、特にロシア革命とはそういう場所なのでした。憲法制定会議のことをもって、レーニンを批判するのは極めて理不尽で不当なことだと小生は思います。

(続)