【ロシアの社会主義運動−6】

 十月革命は平和な様相のクーデターでしたが、情勢はむき出しの暴力に支配されていました。戦争を遂行するだけの機械になっていた臨時政府は既に退けなければ、労働者、農民、兵士は無駄死にへの道を突き進むだけでした。そして、憲法制定さえされていない状況では、暴力でもって臨時政府を除去するしかありませんでした。小生は、レーニンのクーデターには法律を超えた意味での合法性というか、正当性を有していたと思います。国家システムの正統性と正当性は別物です。臨時政府は皇帝を追放した時点で正統性を有しましたが、その無力さによって正当性は失っていたと思います。「クーデターだからロシアの十月革命は駄目だった」という考えが一部で流布していますが、それは「正統性」のみをみて、「正当性」を考えていないと小生は思います。しかし、「正統性」の呪縛は同時代においては現在よりも強いものだったと思います。ちなみに、ボリシェヴィキの中でも、指導部メンバーであるカーメネフとジノヴィエフは武装蜂起の計画を外部に暴露するなど、強い反対がありました。それでも彼らを除名などで強く処分することは出来ませんでした。様々なものがギリギリの蜂起でした。「一日遅ければ遅すぎる、一日早ければ早すぎる」とレーニンは書き残しています。「待てば死ぬ」とも。遅ければ革命阻止の勢力が態勢を立て直すし、早ければ軍事的な準備という意味での機は熟していない、と。ちなみに労働者・兵士の多くは蜂起を心待ちにしていました。それでも機会をしっかり見極めなければならないのです。暴力革命において、司令部=党がないのは、不成功を約束することだと小生は思います。

 

 さて。レーニンの蜂起が成功した後、ケレンスキーは逃亡、臨時政府の閣僚は逮捕されました。臨時政府にメンバーを派遣していたメンシェヴィキ、社会革命党(右派)は激怒します。ボリシェヴィキに協力的であった社会革命党(左派)もボリシェヴィキと距離を置きます。結局のところ、ボリシェヴィキは広い意味での革命的党派を結集することは出来ませんでした。そこで、ボリシェヴィキは、自らを中心に、ボリシェヴィキに好意的な社会革命党左派の一部で新政府を作らざるを得ませんでした。一般的に労働者階級は断固とした非妥協的な姿勢を見せるものを好みますが、非妥協性は往々にして周辺に敵を作ります。ボリシェヴィキの革命性は、曖昧なものを敵とし、その曖昧なものに飲み込まれていたメンシェヴィキを敵規定せざるを得なかったんだと小生は思います。そして、革命が悲劇的なものであることを示す、余りにも苛烈で残酷な真実は、カール・シュミットの『政治的なものの概念』が示した友−敵理論を極限で示すことになるでしょう。この理論が示すところは、要は「国家の敵は殺せ」ということです。これのむき出しとなる例が、革命と戦争だと思います。そうならないための安全装置を、人類は生み出してきましたが、その装置が壊れるときはあるのです。

 

 ボリシェヴィキ+少しの社会革命党で組織されたレーニンの政府。レーニンには権力奪取に酔いしれている暇はありませんでした。「パンと平和と土地を!」という民衆の切実な要求に答える必要がありました。平和はドイツとの無条件講和、土地は社会革命党の草案に基づいて農村ソビエトに一任します。パンについてはこの段階では特段問題になりませんでした。しかし、これらの課題は様々な軋轢を生み、そしてロシアを破滅の淵に追い込み、そしてレーニンは危機打開のために多くの人命を落とす選択を突き付けることになります。

(続)