【ロシアの社会主義運動−4】

 1914年には愛国心に燃えていた「軍服を着た農民、労働者」も、戦線の膠着や悲惨な戦場に嫌気を増していきます。1917年の二月革命とそれに続くツァーリの退位は、混乱に輪を掛けます。戦線離脱が相次ぎ、ロシアに帰還する兵士が増え、臨時政府の統制は利きません。「ボリシェヴィキ? 何それ?」という感じだった労働者や兵士でしたが、レーニンの「いわくつきの」四月テーゼに対して懐疑的な立場から、戦争継続を訴える臨時政府やそれに支持を与えるソビエトへの不信感を強める中、徐々に労働者や農民はレーニンの四月テーゼやそれに支持を与え出したボリシェヴィキになびいていきます。「パンと自由と平和!」。労働者と兵士の叫び声は強まっていきました。そして、元々メンシェヴィキの立場にあり、レーニンが鉄の規律を訴えた時、「労働者を地区委員会が代表し、地区委員会を委員長が代行し・・・そして党全体を党首が代行する」と、その組織論を鋭く批判したトロツキーが、メンシェヴィキを捨ててボリシェヴィキに就きました。彼に続き、有能な革命家は徐々にボリシェヴィキを支持するようになりました。しかし、そうは言っても、一九一七年の六月ごろまで、ボリシェヴィキは農民の間では言うまでもなく、労働者の間でも少数派にとどまっていました。

 

 さて、徐々に無能っぷりを露呈する臨時政府でしたが、当初は大衆に期待されていました。ロシアを変えてくれる、と。改革派議員として期待されていたケレンスキーはソビエトを代表して入閣、五月には軍事大臣として腕を振るおうとしました。しかし、ロシア軍は崩壊しつつありました。ケレンスキーは、ナポレオンを目標にしたと言われます。さて、あの大ナポレオンだったのか、甥のナポレオンだったのか。いずれにせよ、あらゆる階層全てを代表しようし、束ねようという彼の野望は実現しませんでした。彼が軍を統制出来ない中、ボリシェヴィキは自前の武装を強めていきました。それは、旧皇帝の支持者や新政府の中でボリシェヴィキを快く思っていない部分が、自前の武装を進めていたことと対をなします。繰り返しになりますが、革命的情勢においては、武力は無視してはならない条件であり、道具です。自前の武装は実はなかったケレンスキーは、ボリシェヴィキをはじめとする武装勢力のバランスを利用しようとしました。だが、このような政治家は足許を見られるのが関の山です。

 

 一九一七年七月、都市の労働者と兵士は事態を好転出来ない臨時政府に業を煮やしていました。奴らを排除し、「全ての権力をソビエトに集中すべきだ!」と。諸説ありますが、小生が落ち着いた考えは「レーニンはそのような集中=武装蜂起は時期尚早だ」とレーニンは考えていた、ということです。しかし、暴発に似た武装蜂起は起きてしまいました。ボリシェヴィキはどうしたでしょうか? 何と、彼らの先頭に立ち、自らを弾除けとすることで、鎮圧側の軍隊から暴発した労働者・兵士の部隊を守りました。これは、弾圧を引き受けることでもあります。体を張り、自らの主張を差し置いても、労働者と兵士を守ったボリシェヴィキは、犠牲を払った代償に、尊敬と信頼を獲得しました。……都市部では。(続)