【ロシアの社会主義運動−3】

 一九一七年旧暦二月二十三日、「パンをくれ!」と主婦たちが首都ペトログラードで請願的なデモを始めました。そのうちデモに労働者が参加して大きくなり、多分何も考えていないロマノフ二世は鎮圧を指示します。死傷者が出たことで、兵士の中には反乱を起こす部分も出てきました。反乱は拡大し、司令部を襲撃し、軍の命令に従わずに独自武装します。とどのつまりは政治革命は暴力の問題であり、現状では平時に民衆の側が考えられる武装をしても勝ち目のない軍隊を獲得できるかどうかに運命は握られています。レーニンは軍隊のことを「軍服を着た農民と労働者」と呼びました。鎮圧すべき部隊の兵士は脱走し、ついにはロマノフ二世は退位に追い込まれます。なお、政治権力については歴史上類を見ない奇妙なことが起こりました。帝政時代のドゥーマは存続している一方、蜂起した労働者や兵士にメンシェヴィキが呼びかけて作られたソビエト(労農評議会)にも政治権力がありました。ドゥーマは三月二日に臨時政府を作り、ソビエトは「当面の革命はブルジョア革命(資本家のための自由主義革命)である」と考え、支持を与えました。戦争同盟国との関係を損ないたくないこの政府は、戦争の継続を訴えました。国家の本質である暴力装置はソビエトにありましたが、彼らの中枢を占めていた革命家たちは、社会主義者も含め、当面の革命はブルジョア革命であるから、ドゥーマ由来の臨時政府を認めているのです。そして、少数派に過ぎなかったボリシェヴィキの殆ど全員もこの態度に賛成していました。

 

 さて。ロシアの戦線は疲弊していました。愚直なロマノフの無茶振りに従わされたロシアの兵隊は、先の見えない戦争に嫌気がさし、戦線離脱をしているありさまです。彼らは講和と平和を求めていました。亡命先のスイスで情勢を分析し、八方手を尽くして両者の思惑が一致して誕生した封印列車でロシアに帰国したレーニンは、戦争継続も長くは不可能で、脆弱に過ぎる自由主義者の基盤も崩壊することを予見していました。農民は土地を求めて地主の殺戮をしていました。そして同時に、兵士に働き手を取られてしまった農村は、土地も荒れていました。要は疲弊しきって無茶苦茶になったロシアを立て直すには、二重権力状態を解消し、資本家=自由主義者の手から権力を社会主義者の手に移さなくてはならない、一言で言うと更なる革命、社会主義革命が必要であるとレーニンは帰国直後のぺトログラードで訴えました。有名な四月テーゼ——臨時政府打倒、全ての権力をソビエトへ、祖国防衛拒否——ですが、レーニンの支持者でさえも彼が何を言っているのか理解できない有様でした。また、ドイツの列車で帰国したため、スパイめ!という怒号が渦巻きました。「レーニンはドイツのスパイである」というデマは、政治的オボコたちによって今なお繰り返されていますが、そういうことを信じれる人は政治にかかわらないほうがいいと小生は思います。

 

 さて。レーニンはこの革命的情勢にあって、臨時政府に対する「外部」に立つことを訴えました。しかし、メンシェヴィキ、社会革命党、そして残留ボリシェヴィキは臨時政府に支持を与えており、いわば「けっこう内部」とでも言うべき位置にいました。レーニンは粘り強く訴え続けますが、論理だけでは彼らを説得できませんでした。しかし。

(続)