【ロシアの社会主義運動−2】

 第一次世界大戦でロシアは陸続きの戦場を有し、イギリスとの同盟関係から多大な軍事的負担を負うことになりました。元首であるロマノフ二世は、ロシア人的愚直さを持った人物で、イギリスやフランスのような老獪な政治国家に利用されたようにも思えます。ドイツとの交戦は長引き、ロシアは疲弊しました。

 

 話は少し昔になります。それまで植民地主義者どもの草刈り場であった、アジアにおいて、一つの国家が奴らのルールに従った上で、文明化を果たしつつありました。この国は軍事大国として、西欧も一目置かざるを得なかったロシアと対戦し、勝利しました。言うまでもなく日本のことで、このことは植民地支配に置かれたアジアの諸国の民衆を勇気づけ、ロシアの頽落を示したことでロシアの革命家をも勇気づけました。但し、ロシアの農民と結びついた労働者は、この段階ではツァーリへの信仰心を持っていたと思います。日露戦争のさなかの1905年1月、労働の過酷さや戦争からの離脱を訴えるデモが首都サンクト・ペテルブルグで、ロシア正教会——すなわち、体制側の人間——のガポン神父によって組織されました。六万人のデモに対して、ロマノフ二世は中心街に入れないように指示し、軍隊が動員されました。デモは請願デモと言われる非武装のものでしたが、請願のためには中心街に入るしかありません。ロマノフ二世は好人物でしたが、政治的感性においては、余りにも愚直、いや、率直に言って愚鈍でした。指示を守ろうとする軍隊は、非武装のデモに対して発砲し、千人以上の死者が出ました(血の日曜日事件)。このことは、ツァーリに対する労働者の幻滅を引き起こしました。そんな時代、ロシアの農民たちの負担も形式ばかりの農奴解放——一八六一年——や戦争などによって増えていて、各地で騒乱が続き、都市ではストやデモが引き続き頻発しました。そして、都市でも農民でも、新時代を求めるデモ・スト・暗殺テロなどによる騒乱状態が拡大し、革命的状況となりましたが、この時点では、それらの圧力を束ねる政治勢力が未熟でした。一九〇〇年にナロードニキを束ねた社会革命党を中心とするテロは、一定の成果を挙げましたが、形ばかりの「議会(ドゥーマ)」は基本的に帝政のそれまでの支配者にお墨付きを与えるものでした。レーニンは、そんな議会でも、そこで議席を持つことは、革命の宣伝のためになると主張しました。前に革命は、権力にとっての外部からの攻撃でなされるというお話を書きましたが、その原則に忠実たらんとする者は、権力にとっての内部である議会に参加することを拒否しました。レーニンは、それを批判し、議会を利用できるなら利用するべきと言いました。レーニンは、その意味では原理原則主義者ではありませんでした。

 

 ともあれ。一九〇五年の革命的情勢は党派の未熟さ、特に革命を担うと考えられた資本家の政治勢力であるべき自由主義者の未熟さと、一九〇六年に首相に就いたストルイピンの苛烈な弾圧もあり不発に終わりました。レーニンも逮捕を逃れるために長い長い亡命生活に入ります。なお、「まずは平静を、しかる後に改革を」と考えたストルイピンはレーニンに「健全なる反動」と評価され、この人が首相を続けたらロシアの歴史は自由で民主主義のある良いほうに変わっていたかも知れませんが、ロシアの農民が属していた共同体(ミール)が壊れるのでは、という恐怖心から改革に反対し、凡庸な君主であったロマノフ二世もストルイピンを理解できず、彼の改革は頓挫します。ロマノフはその後、仲間内で政治を行ない、遂には怪僧・ラスプーチンに政治介入を許してしまうことになります。このことは、ロマノフ二世の権威を大いに傷つけ、民心が離れることでした。

 

 そんな第一次世界大戦前の状況があり、大戦で疲弊した労働者・農民・兵士は「もうだめだ」と感じ始めます。そんな一九一七年二月、大衆の中で最も生活状況に敏感な層である主婦が決起します。(続)