【イギリス、ドイツの社会主義運動−2】

 というのは、当時のドイツ帝国は労働者の運動に妥協していても、ビスマルクによる社会主義者鎮圧法(1875年制定)により、労働者階級の利益を代表するとされる社会主義者の政治参画を禁止していたことが理由に挙げられます。帝国にとって、労働者は考慮の範囲には入っていても、政治の意思決定においては、外部に留めていたからです。ここで、非常に大事な観点があることを書いておきたいと思います。すなわち、政治参画の内部/外部という問題です。当時のドイツは、皇帝(カイザー)を冠した帝国で、選挙に基づいた議会が生まれ出した頃に相当します。普通選挙と議会があれば、民主主義の態勢は整っているので、民主主義があると言えなくもありません。しかし。E.H.カーによると、民主主義は「共通の前提」を、構成員に要求します。この場合は、選出される人は、社会主義者であってはならないこと、が条件になります。というのは、帝国の法律により、社会主義者は取り締まられることになっていたからです。このようにして、この時代のドイツ帝国は、表向きは社会主義者を排除することで成り立つ民主主義を採用していた、と言えます。民主主義は共通の前提を構成員に要求する、ということは、これに従わない者は構成員になれないことになります。

 

 こうして、帝国議会の外部に社会主義者は留め置かれることになりました。勿論、外部にあっても、議会に対して様々な影響力を行使することは可能です。しかし、直接的に社会主義者や労働者階級の要求を議会に提起し、飲ませることは出来ません。そうなると、直接飲ませられるようにするならば、内部に入り込ませるように社会的強制力――通常は暴力という――にモノを言わせるか、あるいはそのような議会を破壊し、別途、労働者階級や社会主義者のためのシステムを作るしかありません。後者は言うまでもなく革命です。前者も、考えようによりますが、社会的強制力によってコトを成す、ということでは、革命と言えなくもないでしょう。というのは、支配的システム内のルールの外部から、暴力によって物事を進めるわけですから。このように、革命というものは、外部における力――暴力――によって、変革を成し遂げる側面があります。但し、注意して欲しいのは、このような革命は、政治権力を握る過程での革命であり、「政治革命」に関することだ、ということです。むき出しの、あるいは隠然とした社会的強制力――暴力――を担保しなくては、政治革命は不可能であり、そして、それは同じ「革命」という言葉を用いている「社会革命」とは異なる点がある、ということを強調したく思います。

 

 エンゲルスが指導していた時代のドイツの社会主義運動は、このような状況の下にありましたから、当然体制内部の運動になり得ないとエンゲルスが考え、それ故にドイツの社会主義運動、それを支える労働者運動は革命運動であるとエンゲルスが考えたのは当然のことでした。

 

 では、社会主義者鎮圧法のもとでの、ドイツの社会主義運動はどうなったでしょうか。

(続)