あまりの迫力に、選挙直後でもないのにアクセス急増のJCP氏のコメント、見やすくするためにエントリ建てます。

このサイト真剣に読ませて頂きました。私は現職の日本共産党の党員です。高校生の頃から民青同盟の活動家であり、18歳の誕生日に日本共産党に入党しました。民青の頃は朝に赤旗の配達をし、民青の地区委員会にいるというものでした。

 当時に民青大阪府委員会の幹部だった宮本岳志や山下よしきとは府委員会でよく会議したものです。府委員会の常任になる前の宮本岳志は地区の専従・委員長 であり、地区にたむろする同盟員に対して「つべこべ言わんと、同盟費や新聞代集めて来い。俺の晩飯どうするんや」という名言をはいて80年代末の大阪の民 青からは「スターリン」と呼ばれていました。

とうじ私の地区には専従が三名おり、日本共産党の18大会・二中総を受けて民青は五中委というものを開きまし た。「柔軟で新鮮に」な活動というものを確認したものです。これは宮本顕治議長の冒頭発言を受けてのものです。少しのあいだでしたけれども高校生党員だっ た私は高校内で生徒には民青のオルグを「われ高」の部数は相当でした。教師には党のオルグと赤旗の勧誘というのをしていきました。

続き。私は高校時代から熱心な活動家だったのです。それは私の地区党の委員長が大幡基夫さんであったこともあります。私の住んでいる市は当時に与党だったということで、入党記念に長老市議に連れられて市長と会ったりしました。

消費税とリクルート事件の闘争のなかで高校生であっても党活動を求められたのです。高校卒業後に京都の大学に進学することになり、大阪の地区と京都の地区と両方で活動するようになっていったのです。18歳の夏に伊東の民青中央幹部学校に行きました。

そこに講師として党中央から来ていたのが当時に青年・学生担当の中央委員だった志位和夫さんでした。講義の内容は組織論が中心のものでした。朝早くに起きて、学習会館の周囲をランニングしてそれから朝食というものでした。魚料理が美味しいと聴いていて、確かに美味しかったです。学習会館には図書館級の書籍があり、夜遅くまで学習したものです。その頃京都では木村万平さんを候補とした市長選が闘われており、幹部学校に参加した者で激文を書きました。

続き。当時の京都府党の委員長は近鉄電車で通勤する市田忠義さんであり、京都市民でもないのに京都市議だった穀田恵二さんと京都を回りました。あの夏の市長選は手応えがありました。本気で勝てると思ったのです。投開票の夜に選対事務所にいると寺前巌さんとかが集まり、結果を待ちました。

結果は当選した候補に321票差で負けるというものでしたが、すごい善戦した闘いだと思いました。その前後に大阪では参院補選があり、吉井英勝さんが当選するということもありました。党の大阪府委員会や京都府委員会に出入りするようになり、党活動者だったのです。党費は収入の1%で、そこから民青同盟費を控除して収めるというものでした。

朝に赤旗の配達をし、駅頭に立ちマイクを握って演説したのです。その頃には民青本部や党本部にも出入りし、選挙対策者のひとりになっていたのです。大阪と京都で活動するというハードなものでしたが、衆院選では菅野悦子議員をまえに選挙カーの上から演説しました。

 続き。いろいろな事がありましたが、参院選・都議選をまえにした日に天安門事件があり、その翌朝には中国共産党を批判したビラを駅頭で撒いたのです。「おはようございます。中国共産党を批判しましょう、日本共産党です」と撒いたのですがビラの受け取りは悪く、市民から「同じ共産党やろう」と捨て台詞をはかれたり、私の目の前でビラをびりっと破る人もいました

消費税とリクルートを主な争点として、参議院で「政党間の力関係を代える」具体的には予算を発議できる21議席以上を持つというものでした。あのとき党の闘いは社会党批判に重きを置いたもので、本家本元の日本共産党への追い風が社会党に流れていくというのを危惧したのです。私自身も社会党批判をしました。当時に社会新報も読んでいたので私自身のなかには社会党との参院選後の院内外での協力も必要だと演説すると私のマイクを奪ったのが宮本岳志さんでした。大勢の市民のいるなかで岳志と本気で喧嘩しました。

続き。岳志は私を投降主義だと批判しましたが、数日後には赤旗にも載らない常任幹部会の「社会党批判の留意点について」という文書が出回り、岳志も何も言えなくなりました。まだ10代だった私は基本的には地元の地区党に所属していましたが、委員長の大幡基夫さんとは夜遅くまで会議していました。

民青の活動よりも党活動が優先されたのです。地区委員長としての大幡基夫さんは理論家であり、自転車で地区内を移動していました。ある夜に喪服姿の大幡委員長に会い、ああ須藤五郎さんのお通夜に行っていたのだなと思いました。私の民青の地区から中央に行く人も多く、元民青委員長としての大幡さんの力が働いているということでした。私も大学を卒業したら専従になるという決意でしたが、地元での私は対外的には日本共産党というイメージが付いてしまいましたが、党内的には他党の議員と飲みに行っていたりするとすること、党や民青の会議で社会党や無所属の人との共闘を訴えるという立場だったのです。

続き。日本共産党だけが正しいのではなく小異を捨てて大同につこうという主張をしたのです。その頃には大学を卒業してから党の専従になり、大物市議の後継として市議選に出馬するということが内定していました。その頃の民青中央の文書には民青新聞には載りませんでしたが、民青は月に2000万もの赤字がでているということが書かれてありました。

当時には民青の活動家は親が議員とか活動家という人ばかりで、高校生の頃には民青の地区にきたこともなかった人が神戸大学での全学連・民青の活動家になっていて、ある日に大学で配った学生新聞の表紙に載っていてその後に民青の委員長になった姫井君です。私は党活動を広範なものにするために創価学会青年部や部落解放同盟との話し合いに積極的でした。ある日に党大阪府委員会に呼ばれて行ってみると大幡府委員長や府党の常任たちに査問を受けたのです。そこで私は大きな党を構築するためには広範な運動の共闘が必要だと主張し、あの人はああだから排除すると言ってきたのです。

続き。私はいろんな要求を拾っていくなかで党の躍進にも繋がると主張しましたが、だめでしたね。党と民青の役職を解任され除名・除籍はしないけれども事実上の引退勧告をされました。国会内に入れる政党バッチも返してくれということでした。

私が徹底的に批判した宮本岳志が参議院議員になる山下よしきも参議院議員になる。一時期に日本共産党は都議会で第二党である27議席を得、参議院でも23議席に躍進したのです。でも様々な要求を拾っていくことをせずに、党派抗争に明け暮れた結果にいまの状態になっているのです。赤旗を読んでいてこんな人が議員に立候補しているのかと思い残念です。いまでも党中央には同志が大勢います。筆坂変節で登場したカラオケに行った女性秘書は私の後輩であり、同志が国会議員団の秘書にいます。塩川てつや議員はいまでもお酒を飲みに行く仲で、今期で引退される吉井英勝議員も仲がいいです。党中央委員のなかにも同志がいます。

続き。いまの日本共産党の若手のなかには党の方針をおかしいと感じている人がけっこういます。民青卒業組の議員はおかしい。地方議員が地域を回って赤旗の拡大をしているのに、届いた赤旗を読むとうんざりとしますね

地方議員は日本共産党だからというより、あの人だから当選している人が多いのです。党中央はそういった地方議員や活動家を大切にしない。国会議員のなかにも寺前さんや山原さんみたいに地元に根ざした党活動をやって小選挙区でも当選した人もいた。日本共産党。広範な市民や労働者の声を代弁する党であるべきです。日本共産党を愛し躍進して民主連合政府の中核となる党を作りたいと願っている人をどんどん排除していったら国民は付いていけないですよ。知って欲しいのはそういう党員もいるのだということです。日本共産党をよろしくお願いします。

 若干。筆坂秀世さんの本はけっこう党内で読まれています。たかじんの番組を観ると痩せたかなという感じですが、筆坂ファンの私には議員辞職は辛かった。日本共産党は様々な市民運動や労働組合を分裂させ、要求実現の運動の妨害者になっている。結党時の党は反戦・平和・主権在民を訴えて、非合法の時代にも一定の力を持っていたのに戦後初の総選挙で当選した五人のうち野坂・徳田・志賀を除名してしまっている。

古い党員の人には徳球は頭が良かったという人もいるのに。さすがに野坂の死亡記事は小さく赤旗に載っていましたけれども。金子満広さんなんかは市民運動のなかで共闘を模索したために、引退させられてしまう。カッコいいスーツ着て選挙選闘ったのにね。正森成二さんは他党の議員と仲が良かったために比例中国ブロックに飛ばされてしまう。正森さんは大阪から出てこそ意味のあるので、永年議員表彰をタキシード着て受けていたのは感動でしたけれども。住吉のご自宅どうなったのかな。小さな家でしたけれども。沓脱さんは府選対の一階の誰もいないところで、煙草をふかしていたのにな。むかしの議員は魅力的だったけれども。いまは・・・。

若干。いまの私は何の役職にもついていない地区直属の党員です。日本共産党の主張はその通りだなと思いますし、実際に票も入れている。でも日本共産党だけが正しいのではなく市民運動というもの、あるいは労働組合活動というものを軽視している。

かって川田悦子さんが衆議院議員だったときに、統一会派を組むという意見もありました。私も選対のひとりだったので党籍を持つ革新共同の議員ではなくても一致する要求で統一会派を組むということもできたはずです。でもそういうことはなかった。地元の市でも無所属の議員と統一会派を組もうとしない。かって与党だった頃に他会派からは市長は共産党の言うことばかり聴くと批判されて社会党の井上一成衆議院議員が市長に日本共産党とは縁を切れといってきたそうですが、それを拒否して次期市長選には日本共産党の単独推薦でも出馬し勝てると言い返したということがありました。他会派は助役を候補として担ぐこととし、市役所が分裂するという危機もありました。