こちらで議論が続いている中で、ふと枝分かれした話題の件。ぼくちんが「倹約のパラドックス」をネタに出して、マルクス主義は他から学ばないと書いたところで、TAMO2師匠が「アナリティカル・マルキシズム」を紹介する形で返してこられた。

アナリティカル・マルキシズムについては、ぼくちん全然知らないというか、そもそも資本論すら読んだことのないヤカラなので、そんな研究している人がいるんだと感心したのだが、果たしてこれはモノになるのか?けっこう疑問である。というのは、思想があるからである。

もともとぼくちん経営系を学んでいた人間で、経営系の進化は何によってもたらされてきたかも学んできた。進歩のきっかけ。それは目の前の問題である。

経営学の端緒に関しては諸説あるが、最も初期に問題が認識されたのは19世紀後半、急速に大きくなったアメリカの鉄道会社の管理に関してだろう(たぶん)。当時のアメリカの鉄道は急速に路線を延ばし、しかも社長が会社を見て回ろうにも一週間はかかるという管理上の困難、そして複雑になってしまったダイヤの運用を1つでも間違えば大事故になるなど山積する問題の解決が必要だったのだ。

20世紀になると化学企業や自動車会社など、別の大企業の管理がもっとややこしくなって、そこから事業部制が発明される。その後の経営史上のトピックも、多くが今の自分たちのノウハウでは管理がしきれない。うまく会社を運営できないという問題をどう解決すべきかから進化が始まったのである。そこに「経営はかくあるべし」なる思想はない。経営者は問題をいかに解決するか。技術や手段を考えるだけである。それに後付けの理論を作る者を経営学者というw

もちろん歴史上「経営はかくあるべし」と思想をもち、実践した人がいなかったわけではない。その代表例はヘンリー・フォードだろう。そのフォードを昇竜のごとく高みに登らせたのは科学的管理法をはじめとした技術や手段であり、坂道から蹴落としたのはフォーディズムという思想であった

人間、理想は持ちたいものである。世の中はこうあるべきだと考えることが悪いわけではない。そうした考えが、時として時代を動かす。フオーディズム然り、マルクス・レーニン主義然り。

現代においても、非正規雇用の悲惨な状況が蟹工船ブームをよび、そこから新しい何かが生まれてくる可能性も否定はできない。

しかし思想は手段や技術の選択肢を狭める。思想を持たねば選べる選択肢を選べなくする。FRにこだわり続けるBMW、夢の世界をかたくなに守ろうとする東京ディズニーランドの如く、選択肢を限定することが、より素晴らしいモノやサービスを生み出す組織づくりを促すこともないではない。むしろ企業では、そうした差別化を進めた方がいい場合の方が多い。消耗戦になる競争をしなくて済むからだ。

同じことが格差社会の是正のような大きなテーマ、しかも抗いがたい社会の変化になにがしかの影響を及ぼそうとする時にも言えるだろうか?言い換えれば、思想によって選択肢は限定すべきだろうか?

アナリティカル・マルキシズムという言葉を覚えたついでに、そんなことを考えるぼくちんであった。