2008年03月13日

文学は政治のしもべであるw

多喜二1多喜二2「小樽多喜二祭についての佐高信氏の社会的常識に反する行動」を掲載。

写真をクリックすると全文読めるが、要は週刊金曜日が小樽多喜二祭のツアーを企画して、そこに佐高信も行ったのだけど、

墓前祭全体に漂う共産党臭が鼻について、私は一人、とっとと坂を下ってきました
「政治的な少数派が勝つ道は文学を含む文化を大事にして、その可能性に賭けるしかない」「それなのに文学を政治の僕にしていては勝てるわけがありません」

等とサンデー毎日に書いたのに、小樽多喜二祭実行委員長が噛みついた格好。サンデー毎日自体は既に次の号になっていて、該当号は入手できなかったのだが、こういうのは論評に困るなぁ(^^;)

共産党員として死んだ小林多喜二をしのぶ催しに共産党臭がするのは、まぁ当たり前といっていい。その程度のことは佐高信も分かっていたはずだ。

しかし、佐高の言い分は、おそらくは「だから共産党を強く大きくしましょう」とか「今の文学はなっとらん」とか、いかにも宮本たけし先生が言いそうな放言が小樽多喜二祭会場で無視できないほど多く聞こえてきたのだろう。それに佐高はカチンときた。

事実、実行委員長寺井勝夫は「文学を政治の僕にしてはならないなどという場違いな佐高氏の言動」と評している。つまり、文学とは政治の僕だと思っているわけだw

それにしても、佐高信には噛みついても、「正論」で日本共産党の告発記事を書いている志波耕治タンには噛みつかないのが興味深いねwww


busayo_dic at 13:10 │Comments(20)TrackBack(2)clip!きょうの赤旗2007-2008 

トラックバックURL

この記事へのトラックバック

1. 本の反骨 03142008  [ つき指の読書日記 ]   2008年03月13日 20:36
 マスコミ報道が毎日、どう選別基準をもってなされるのか、さまざまな切り口で大小まぜこぜに事実、事件が流される。いまなら通常国会での政党間の駆け引き、これも参議院で民主党など野党が過半数を制しているから、政局含みの激しい攻防戦になる。民主主義の醍醐味で、い...
2. 欺瞞記事  [ TAMO2ちんの日常 ]   2008年03月18日 10:52
 先日、チベット問題に関して小生は以下のメールを出した。 ---- 前略 愛媛県新居浜市のxx 保と申します。 今、世界の注目を浴びているチベット問題に関してですが、かつて中国共産党の 覇権主義に反対して闘った貴党がなすべきことは、1989年6月4日を思い出 さ...

この記事へのコメント

1. Posted by 道草クー太郎    2008年03月13日 14:46
 佐高氏に反論する文章が文学的修辞のカケラもない共産党的政治文書なのがお笑いのポイントかと(笑)この程度の浅薄な人物が多喜二祭を取り仕切ってるわけですな。
2. Posted by 道草クー太郎    2008年03月13日 15:01
関連情報。ご参考まで。

「週刊金曜日」小林多喜二ツアー 参加報告
http://shirakaba-bungakukan.blog.ocn.ne.jp/takiji/2008/02/post_b78b.html

小林多喜二ツアーの佐高信さん
http://ameblo.jp/sataka/entry-10076642170.html
3. Posted by クニチュウ    2008年03月13日 16:32
私もこの赤旗記事には苦笑しました。久々のヒットです。
だいたい多喜二自身が、文学は政治のしもべ説の強硬な支持者であったことを、共産党も佐高氏も無視しているのですね。政治的文学というものを大胆野蛮に肯定しきってしまうことこそが、多喜二やマヤコフスキー等の魅力であったし、めそめそとした文弱さを荒々しく突き抜けた作品が、今も読むに耐えるものです。

佐高氏は墓前祭に参加した老共産党員たちが
「今年こそ、失われた北海道の議席を取り返す!」
などと言うのに辟易したそうですが、
多喜二的に意趣返ししたいのならば
「議会など宣伝とバクロの場に過ぎない。
 人民の闘争こそ、云々〜」と挨拶すれば良かったのです。

4. Posted by todo    2008年03月13日 18:28
>文学とは政治の僕だと思っているわけだw

すべてを生産関係の投影と見てるのなら当然の見解ですか。でも、それならマニフェストってなんですかね?
スローガンやプロパガンタならわかるんだけど。
5. Posted by JGB    2008年03月13日 23:31
>多喜二自身が、文学は政治のしもべ説の強硬な支持者であった
その点は全くそのとおりだと思いますね。上記リンク先の文を読むと、佐高氏や他の党外参加者にとって共産党挨拶が予想外であったと書いてあるが、多喜二の墓前祭に共産党がからまないと思う方がどうかしてる。も一つのリンク先には「案内されたバスの中にはご老人方がびっしりといらっしゃる、異様な雰囲気」とあるのも笑える。威勢よく「議席を取り戻すぞ!」と言ったものの、参加者は多喜二を通して、強かった古き良き共産党の思い出を見ているのでは?
「プロレタリア文学」という言葉はもう死語かも? いっそ多喜二の亡霊が出てきて、「千の風になって」をうたってくれたら絵になったかも。
6. Posted by busayo_dic@管理人    2008年03月13日 23:40
>いっそ多喜二の亡霊が出てきて、

一昨年、当blogに来られました。ただ、「千の風」は歌っておりませんw
http://kinpy.livedoor.biz/archives/50520835.html
7. Posted by クニチュウ    2008年03月14日 00:00
>JGB様
そうだそうだ〜
多喜二の墓前にあっては、イデオロギー闘争をする
ことこそが最も相応しいです。
共産党北海道委員会の挨拶も相当に長広舌で党派性
ギンギンであったとも聞いていますし、この件でも
「社会的常識」に訴えるのではなく「プロレタリア
道徳」に訴えるべきですが、佐高氏も政治と文学の
関係を中野重治でも読んで考え直すべし。
8. Posted by 道草クー太郎    2008年03月14日 09:04
 多喜二が「文学は政治の僕でヨシ!」だったにしても、多喜二を利用する共産党の「政治」なるものの内実がベクトル内向きの「党員のネジ巻き」では、やはり「文学を囲い込むな!」で正解だと思うのですが、どんなもんでしょう?
9. Posted by クニチュウ    2008年03月14日 11:11
なるほど。「政治と文学」の政治の内実が変質しておると。
確かに、大衆運動含めた諸々を示す「政治」と、失われた北海道の「議席獲得」に矮小化された政治とでは、道草さんの指摘通りかと思います。

そういえば当地の「九条の会」などはいつのまにやら党員さんが執行部の全員を占め、九条の会の定期的な連絡などは;

・会員を拡大しましょう
・街頭宣伝に参加しましょう
・(憲法擁護の)署名を集めましょう

のみになってしまいました。ベクトル内向きの運動には誰もついて行かないのは同様です。
10. Posted by キンピー    2008年03月14日 12:50
当地では共産党系の民主団体が、そのまま九条の会の事務局団体であると明言しております。
また「9条をいかそう・木津川地域連絡会」など、党組織を真似た組織作りを行っており、ベクトルは内側に向きっぱなしのようです。

私が「一人西成九条の会」を作っても、地域連絡会に参加させてもらえないのでしょうねw

11. Posted by 道草クー太郎    2008年03月14日 13:09
 文学と政治、それぞれが同じ時代を生きているならいざ知らず、多喜二文学と不破政治は明らかに時代も世界も異にする別物。多喜二文学が不破政治の僕になるとすれば、異なる時代性から恣意的に「同時代」を描き出すか、時代超越的な「党派性」=猪突猛進性を抜き出すかという話になるんじゃないでしょうか。
 不破政治の僕である「民主文学」が文化への影響力を全く持てずにいる現実を多喜二がどういう思いで見ているか、「民主文学」の書き手であるはずの多喜二祭実行委員長は思いを致すべきでしょう。
12. Posted by 黄色のこぐま    2008年03月14日 17:37
 もともと、労働組合や平和団体以外、組織を作るといった経験がなく、ましてや思想信条や宗教の違いを超え、「9条を守る」一点での共同などはじめてのことである

 全労連の四国のとある地域組織が「九条の会」を立ち上げたときの教訓の一部です。(「月刊全労連」07年9月号より)
 前半はともかく、「思想信条や・・・」は一体どういう意味でしょう? 全労連では思想信条は完全に自由なはずであり、そのとおりならこんなことわざわざ強調する必要はないはず、と思ったのは私だけ?
 ちなみにこの記事によると、ここの九条の会発足準備会メンバーの出身組織は共産党系で占められてたようです。
13. Posted by クニチュウ    2008年03月14日 20:35
いっそのこと「共産党離脱者・被排除者九条の会」とか作ったらいいんでしょうね。赤旗でどう書かれるか見物ですねw
14. Posted by TAMO2    2008年03月14日 23:43
政治に奉仕する文学があってもいいじゃないか!

ただし、「政治に奉仕すべき」となれば、トロツキーが怒ります。(cf.『文学と革命』)

The Takijiの凄さと言えば、これかな。
『チャップリンのこと其他』の要約。

チャップリンの芸術は素晴らしい。だが、彼は高収入を上げすぎた。よって、おのずから我々プロレタリアートとは違う立場に彼は立つのだ。
15. Posted by 元自衛官    2008年03月15日 08:19
ふと思い出し、独逸の国家社会主義労働者党の
やり口を見てきましたが、政治が文化、芸術の
各分野まで直接介入し、宣伝の道具として、
しもべ扱いしていますな。
右も左も政権を取ってしまえば目指すところは
似たようなものか。
16. Posted by JGB    2008年03月15日 22:42
映画「善き人のためのソナタ」にそのへんの事が描かれてますね。問題は芸術家の側に思想に対する自発性があるかないかでしょうか。多喜二の時代の作家や学者には、マルクス主義を自分の血肉とすべき必然性があった。彼らは筋金入りの反体制者だったのですから。今の党員作家にそんな必然性はないですよ。言いかえれば、自分の言葉でない思想を自発的な思想だと思っている作家もどきが問題。自己を見失った芸術家など、便所のふたにもならない。坂口安吾や開高健ならそう言うでしょうw。
17. Posted by 道草クー太郎    2008年03月16日 21:16
 「蟹工船」で、多喜二は軍隊が労働者のためではなく資本家のために働き、労働者の抗議を鎮圧する側にいることを暴露しているわけですが、目を中国国内の諸紛争に転じればどうなるでしょう? 「蟹工船」に描かれた軍隊と人民解放軍は労働者・人民を鎮圧する側にいる点で何ら変わりがありません。

 今日の「赤旗」チベット報道を読めば分かる通り、多喜二を持ち上げて「後に続け!」と党員の尻を叩いてる連中が、海の向こう側で人民を鎮圧する軍隊の側に身を置いている。これはチベット問題に限らず中国で頻発する労働紛争にも言えることだと思います。
18. Posted by 道草クー太郎    2008年03月16日 21:17
 多喜二文学が「政治の僕」だという時、当時の時代状況もあって「政治」と「党」が渾然一体になっている面は否定できません。そこに付け込み、不破氏らは多喜二を「政治」抜きの「党の僕」に取り込んでしまおうとしているように見えます。
19. Posted by 静御前    2008年03月16日 23:38
>不破氏らは多喜二を「政治」抜きの「党の僕」に取り込んでしまおうとしているように見えます。

 「九条の会」を「党の僕」にしつつあるというのが、会に参加して身にしみるように分かります。
 次にやることが、流れが、どこかで決められていると思うこのごろです。
 話の端々に共産党賛美が意見として出されます。ほとんど党員、共産党支持者の集まりで賛美しても、票にはならないのにと思いながら、マスタベーションして、満足感を得られて、ドアの外に出て行けるなら害がなくていいかと、放置してます。「党の僕」は党を否定することは自分の全人生を否定することになるからできないと心得ました。「九条の会」の多くが「党の僕」の集まりだという現状は、そこにしか活動の居場所を確保できないのだとも心得ました。
20. Posted by クニチュウ    2008年03月17日 01:49
集まることそれ自体が目的になっても構わない、と九条の会事務局長の小森良一氏も言っているのにこのテータラク。アナキストだろうが解同だろうが共産党だろうが集まって議論百出、活動方針なんて決まらないが活気だけはある....という運動で良いはずなのに。そこで鍛えられた議論術が、改憲派とガチでやり合う時に役立つはずなのにね。同心円的な「平和への思い」なんてものを組織して悦に入っている様子は、60年安保世代の老共産党員の自慰にしかみえませんね。ま、佐高氏が墓前祭で目撃したものも、似たような同心円構造だったのでしょう。

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔