なんと、たけし先生が以前赤っ恥を書いて削除した内容を別の記事で再びアップ。びっくりしました。きっと党内でも問題になったんでしょう。なんとか言い返せとか言われたのか「綱領学習会」やりましたで済ませばいいのに、またこんなことを……

でもその前に前史を書いておきましょう

1958年頃から多数派であることをいいことに日本共産党は原水禁運動で発言力を持ち始めますが、こんなこともありましたよね

共産党系の多数決によって「今後、最初に核実験を行なった国・政府は平和の敵、人類の敵として糾弾する」という決議を採択するに至った。ところが大会終了後間もない8月30日、ソ連が核実験再開を発表、10月には50メガトン水爆実験を強行した。日本原水協はこの核実験に対し抗議声明を発したが“人類の敵”として糾弾はしなかった。さらに日本共産党はこの核実験を支持し大々的なキャンペーンを繰り広げた。

 日本共産党の“ソ連の核実験支持”運動は異常なものであり、『アカハタ』は連日、ソ連の核実験の正しさの論証にこれ努めた。そして、ソ連の核実験に反対する者を必死になって非難した。「総評幹事会でもソ連の労働組合・全ソ労組評議会に実験しないように打電し、……原水協でさえもソ連声明に反対するという誤った声明を発表し、……湯川博士なども動揺して、反ソ反共宣伝をこととする米日反動に利用される結果となっている」(61年9月9日『アカハタ』号外)と書き、「たとえ『死の灰』の危険があっても、核実験の再開という手段に訴えるのはやむをえないことです。『小の虫を殺して大の虫を生かすというのはこのことです』(野坂議長談『アカハタ』9月9日)と主張した。ソ連の核実験再開は世界の平和を守るものだから、わが党は「この措置(ソ連の実験)を断固支持する立場に立っている。われわれの態度は共産主義者がとるべき当然の態度である」(『アカハタ』9月16日)と力説したのであった。

でもぉ、1964年ごろからソ連と、1966年ごろからは中国共産党との関係が悪化したので志賀義雄の除名などが行われたわけですよね。そうした文脈を書かないとたけし先生の


1964年、当時大阪の共産党が衆議院議員に6回当選させてきた志賀義雄が、ソ連共産党の直接の指示を受け、衆議院本会議で「部分的核実験停止条約」の批准に賛成投票を行って、党を裏切りました。

という文章が理解できません。
ここからも、たけし先生のエントリからの引用です。
 
この「部分核停条約」なるものは、核兵器の地下実験を野放しにし、調印した米、英、ソ連の三カ国が核開発と核兵器を独占しようという意図を持ったものでした。その証拠に、三カ国調印から日本の国会での批准までの約8ヶ月間に、アメリカだけで20回を超える地下核実験を行ったのです。日本共産党は当然のことながら、これに反対し、「すべての国の核兵器の廃絶」をかかげてたたかいました。

確かに、1963年発効の「部分核停条約」は、核開発に後れを取ったフランスや中国が反対しましたね。ところでこの頃、1962年は50回ほど、1963年当時60回ほど地下核実験が行われていたようなのですが、あとの核実験はどこがやったのでしょうか?まだこの頃はソ連とはまだ友好を保っていましたよねぇw

 ところがソ連共産党は、わが党がソ連の言いなりにならないことから志賀義雄らを手先として反党分派をつくらせ、公然とした日本共産党破壊の攻撃をしかけてきました。その時ソ連の手先となった「部分核停条約」支持派が日本の原水爆禁止運動に押し付けようとしたのが「いかなる国の核実験にも反対」という、特異なスローガンでした。

これは1962年かな?ただし特異なスローガンかどうかは別。

 しかし、日本の原水爆禁止運動のスローガンは「核兵器全面禁止・廃絶」「被爆者の救援」という2点であることは第1回世界大会以来の原水禁運動のゆるがぬ原点でした。「部分核停条約」についての意見の違いは脇において、一致点での団結をというわが党や日本原水協の呼びかけにも耳を貸さず、ソ連共産党代表団は「部分核停条約支持」「いかなる国の核実験にも反対」という自分たちの言い分を世界大会が受け入れないことを理由に、大会の壇上から退席するという分裂行動をとりました。

これが時期不明ながら1963年頃かな?中国の核兵器開発の自由のために日本共産党が原水協が分裂させて原水禁ができたのが1965年。その頃にはソ連共産党と日本共産党は険悪な仲になっていたということ。

 先の参議院選挙の最中に公明新聞が、わが党にたいして原水爆禁止運動をめぐっての不当な攻撃を行いましたが、こういう歴史の事実をまったく見ないもので す。「いかなる国の核実験にも反対」がわが国原水爆禁止運動の「原則」であるのように言うのは笑止千万。まさに、そのスローガンこそソ連共産党がわが党国 会議員まで手先に使って、わが党に攻撃を仕掛け、原水爆禁止運動を分裂させた呪われたスローガンなのです。

 ましてや、この「いかなる国 の核実験にも反対」などというスローガンを押し付けようとしたものこそソ連共産党なのですよ。それを「ソ連の核兵器はきれいだ」などとソ連を擁護するため にわが党がこのスローガンに反対したと論難することがいかに歴史の事実を知らないものの言うことか…だから私は「さすがに原水爆禁止運動にまじめにとりく んだことのない」公明党の言うことだと指摘したのです。

というのは、たけし先生が歴史を知らないから言えること。というか道草クー太郎氏の言うように、大気圏内核実験をできなくなると技術力の低かった中国の核開発が不可能になることを恐れてのことだったのですね。

そしてまもなく中国とも仲が悪くなって、それからかな?全ての国の核兵器廃絶を言い出したのは?←と、このあたり自信なし。

ということで、当初ソ連や中国の核を賛美していたが、仲が悪くなってから原水禁と同じ全ての国の核廃絶に方向転換。すなわち自分勝手なことをやりまくって平和運動に分裂をもたらし、なおかつ「すみません、ぼくちん間違ってましたぁ」と頭を下げて原水禁と和解することもせずに現在に至っているのが共産党と言うことでしょうかねぇ。

と、あちこち検索しながら書いてみましたが、そんな理解でよいのかな?当時をよくご存知の常連のみなさま?