靖国問題において、傾聴に値する意見を鬼薔薇苑で見つけたので、書き込んだむじな氏の許可のもと転載させていただく。

busayo_dic@管理人はむじな氏の考えを全面的に肯定するわけではない。むかし靖国にばーちゃん連れていったら、「遺族会では何度も行ったけど、はじめて本殿に上がらせてもらったよ」と言って涙を流した姿を見てきている孫としては、遺族会のくだらなさと共に、靖国問題は感情論であり、論理で解決できるものではないといった感慨を持ってはいる。しかし、ウヨサヨの間に横たわる溝の深さをこれほど明確に示した文章は、寡聞にして知らない。

以下、全文を転載する。ウヨサヨどちらにも、読む価値ある文章と認められると信じる。

靖国擁護論に反論するには



鬼薔薇、野次馬の視線両氏の主張は、典型的な「左翼内部サークル内的自慰」であって、右翼側の擁護論に対する反論にはなっていない。
反論するなら、もっと敵方の論理を研究して、それに対する適切な反論を考えるべき。

野次馬氏は靖国の主張自体を研究しているようだが、それだけでは「オール靖国陣営」の批判としては不足。反論するなら、右派系雑誌も含めたあらゆる靖国擁護論のパターンをすべて把握して、それに対する適切な反論を用意しないといけない。

>「靖国」は戦死した軍人を国家が顕彰する施設(戦争記念施設)として創られた。

この位置づけにしてからが甘い。
靖国自身とその支持層がいっていることは、「(大日本帝国という)国家のために戦う軍務の最中に死んだ軍人・軍属の霊を祀る」ということです。単に「戦死した軍人」ではありません。

ところが、この擁護派の位置づけは矛盾やウソだらけなのです。

単なる「国のために殉じた」のではないことは、近代日本国家建設に最も貢献があった西郷隆盛が祀られていない(西南戦争で「逆賊」とされてしまった)ことからわかることで、要するにここでいう「国家のため」とは、「天皇制政府が規定するところの政府のため」であって、広い意味での「国家のため」ではない。

さらに、「軍務について戦死した」といえないことは、裁判で処刑もしくは獄死、病死しただけのA級戦犯を合祀していることでも明らかです。

要するに、西郷を排除するくせに、A級戦犯は入れるのは、靖国が単に「天皇制軍国主義」というイデオロギーにとって都合が良い人間だけを選別して祀るだけのイデオロギー的装置に過ぎないことが明らかとなります。

しかも靖国擁護派のおかしなところは、「日本人の古来の思想として、死者はどんな人だろうが同じ。その人の生前の行いがどうだろうが、死ねばみんな神仏となって慰霊の対象となる」といっているところ。それなら、靖国神社は「戦死した人」を祀るなら、敵であった米軍、国府軍、ソ連軍、英軍兵士なども祀るべきでしょう。実際、日露戦争では戦死した敵方ロシア兵を慰霊供養する行事が日本各地で行われている。
{戦犯だろうが関係なく、一人の人の霊を祀っている」というなら、第二次大戦でなくなったすべての人を祀るべきでしょう。

要するに、靖国神社というところは、「神社」とは名ばかりの徹底した邪な唐心、ウソで塗り固められた矛盾だらけのイデオロギー施設なわけです。

ただし、ここで実は難題があるのです。つまり右側の靖国擁護論が指摘している「外国の慰霊施設だって、宗教や国家イデオロギーと無関係ではない。たとえば米国のアーリントン墓地には奴隷制のために戦った南軍将兵の遺体も埋葬され、慰霊の対象になっている。中華民国や韓国は国家イデオロギーにもとづいた慰霊施設忠烈祠を設けている。欧米の慰霊施設はいずれもキリスト教が基本になっている」という「開き直り論」、それから「実際に先の戦争で戦って死んだ人は『靖国で会おう』といって死んだ。その霊を祀れるところは靖国しかない。それを祀らないのは死者に鞭打つ行為だ」という「それでも慰霊論」があることです。
実際、そうした原理にもとづいて、戦後カトリック教会(ローマ教皇)は靖国への信者の参拝を認めていますし、世界から多くの元首級の来賓が慰霊に訪れています。これも事実なのです。

これは実は難題で、左派リベラル側の靖国反対論が反論しきれていない部分です。だから、もし反論するとしたら、この二つの論点に絞って反論していかないといけないと思います。

私は前者の「開き直り論」については次のように考えます。
それはそのとおりだが、日本の場合、戦後押し付けだろうがなんだろうが平和憲法を受け入れ、それが国民全体の基本的な価値観となってきたし、二度と侵略戦争を起こさないと誓っている。その憲法および戦後社会原理に照らせば、靖国に含まれているイデオロギー性はやはり受け入れられない。米国の場合は南北戦争によって体制イデオロギーが変わったわけではない。むしろバルト三国や東欧では、共産主義体制が打倒された後、レーニン像が引き倒されたり、過去のイデオロギーに基づく死者観、偉人観が代わり、清算されている。

それを考えれば、やはり靖国イデオロギーは東欧における共産主義と同様に、体制転換後のあり方によって清算されなくてはならない。それに反対する靖国擁護派はバルト三国において「レーニンは正しかった」とでも叫ぶつもりだろうか?
米国のアーリントンと靖国では、体制転換の有無という点で質的に違う。例を挙げるなら、東欧における「レーニン像引き倒し」を上げるべきだろう。

また、後者の「それでも慰霊論」に対してはこう考えます:
そうであるなら、戦前においてもいたはずの、また戦後遺族の中には確実に存在している「靖国には祀られたくない人」までを祀るのはおかしい。「祀られたい人の権利」だけを声高に主張して、そうではない人の権利と感情を踏みにじるのは、まさに共産主義国家がやってきたことと同じ、イデオロギーの押し付け。それから、本当に単なる慰霊だというなら、首相が行く必要はまったくない。民間人の遺族だけが行けばいい。民意全体を配慮すべき首相が行くことは、まさに国家社会を分裂させ不安に陥れる反国家的行為。首相は国内の異なる利害や思想の調整者だから、異論が国内的にも多々ある問題で、一方の側に立つことは、首相という職能に対する涜職行為にあたる。

要するに反論するなら、彼らの正当化論の弱点を衝く必要があるし、彼らが最も嫌がっているはずの共産主義者と彼らの心性がいかに同じかを証明してやるほうが効果的です。
敵を知り、それを倒そうとするなら、敵の主張をよく解析しないと駄目。

鬼薔薇氏らを含めた戦後左翼の駄目なところは、実は敵とする右側が何を考えているかをよくわかっていなくて、「左翼が想定するところの想像としての右」をでっち上げているところ。だから反論になっていない。ドンキホーテの風車と同じ虚像だから。
靖国のHPだけではなくて、保守陣営全体に見られるさまざまな角度からの「擁護論」のパターンを研究すべきです。