いま全国には26万人以上の被爆者の方が暮らしておりますが、平均年齢は73歳に達してしまいました。広島に原爆が落とされて、今日で60年を迎えましたが、悲惨な体験をされた方々が年々少なくなり、いなくなる日も必ずきます。

そうなってしまうと語り継ぐことが困難になり、歴史の風化によって伝えなければならないことが、伝えられなくなってしまうのではないかと心配でありますが、今週の火曜日8月2日の赤旗に嬉しいニュースが紹介されていました。被爆の悲惨さを知らない若い人たちが、追体験をすることによって自分達が語り継ぐ運動をしているそうであります。

彼らは平和公園の碑巡りの企画なども行っているようでありますが、もともと広島の平和公園は原爆の投下された中島地区跡に作られたものです。当時はたくさんのお寺があった地域で、地元では中寺町とも呼ばれていました。
太田川の本流が、広島市の中心部で本川と元安川にわかれ、そこにできた三角州の先端が中島地区でして、ここには中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町といった町がありました。被爆当時、中島地区には約1,300世帯、約4,400人が暮らしていたそうでうす。

本通りには商店が並び、連日買い物客でたいそうな賑わいでした。本通りを抜け元安橋に近づくと広島名物のカキ船が見えてきます。また中寺町にはたくさんの小路があり、通りのいたるところで子ども達が駆け回ります…非情にもそこに少年(リトルボーイ)という名の原爆が落とされたのであります。

平和記念資料館にあるボロボロになった女学生の衣服や、小学生の焼け焦げた手提げカバンを見ると、凄まじい熱と爆風だったと思うのですが、あまりにも現実離れした出来事に私の想像力が追いつかない、資料を読んで分かったような気になっているだけではないかと思うことがあります。

原爆という問題をもっと身近な問題として考えるには、被爆体験者と対話をするというのも一つの方法でありまして、先ほど紹介した若い世代が語り継ぐ運動に参加するということは、今後ますます重要になってくると思われます。

資料だけでは分からない、当事者との対話でしか分からないこともあるはずですから。

罵詈争論でした。