1945年7月26日、ポツダム宣言。

 このポツダム宣言が発せられるや、日本政府および軍の首脳部の間で激しい対立が生じた。日本政府はいったん「黙殺」したものの、広島・長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦と追い詰められ、ついにポツダム宣言の受諾にいたる。

 ポツダム宣言が日本政府に届いたのが7月27日である。内閣情報局の指令のもと、翌28日の朝刊に、国民の戦意を低下させるような条項は削除した上で、新聞各紙に最小限の情報が発表された。当時の新聞各紙の報道。

 読売報知−−「笑止、対日降伏条件。戦争完遂に邁進(まいしん)、帝国政府問題とせず」

 朝日新聞−−「政府は黙殺」

 毎日新聞−−「笑止! 米英蒋共同宣言、自惚れを撃砕せん、聖戦を飽くまで完遂」

 そして28日夕刻、鈴木首相はこのポツダム宣言に関して記者会見を開いた。「あの共同声明は、カイロ会談の焼き直しであって、政府としてはなんら重要な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」

 これが世界に流れると、「ノーコメント」の意味で用いた「黙殺」が、外国紙では「日本はポツダム宣言をreject(拒絶)した」と報じられた。

 しかしこのポツダム宣言の「拒絶」が原爆投下の口実を与えたといわれるが、トルーマン大統領が原爆投下命令に正式にサインしたのは、7月24日の時点だった。さらに、ポツダム宣言には、「我々の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全な撃滅を意味するだろうし、また同様に、必然的に日本国の完全なる破壊を意味するだろう」という条項がすでに織り込まれていた。無条件降伏かさもなくば、原爆による「完全なる撃滅・破壊」か。しかし日本政府はこの文章を一般的な警告の文章ととらえただけだった。

 最近、ベストセラーらしい半藤一利『昭和史』によると、ソ連を仲介にした和平工作に、最後の望みを託していたという。すでにソ連は日本に中立条約廃棄を通告してきたにもかかわらずである。アメリカが原爆の使用に踏み切ったのも、ソ連の対日参戦の前に、何とかして日本を降伏させたかったためだろう。しかし、日本はすでに敵に回っているソ連に和平の可能性を託すあまり、無駄な時間を費やし多くの人命を犠牲にしたのだった。

 この日本の敗戦は、坂口安吾の『堕落論』ではないけれど、日本人の魂の根幹にかかわる、精神的文化的なものだったのではないかと思い至らざるをえない。アメリカの政府内部には、元駐日大使で1944年12月に国務次官に就任したグルーのように、原爆の存在およびその使用の意志を具体的に通告するべきだと主張した人物が存在していた。その内容や学問的方法に対する評価は別として、『菊と刀』のベネデクトのように、日本を徹底的に分析・研究の対象とした学者もいた。

 グルーの危惧したとおり、日本はポツダム宣言の警告の意味を理解したものはいなかった。はたして、当時の日本には「敵」を理解しようと努めたものが何人いただろうか?