1918年7月23日、米騒動。越中女一揆。

【写真】米騒動発祥の地
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 この日、富山県東水橋(魚津町)の漁民の女衆46人が、米問屋が港から米を船に積み込むところを目撃して、一家一人の動員をかけて浜に集合、「米を他国へ出してくれるな」と要求した。彼女らの夫たちは、樺太、北海道に出稼ぎに行ったものの、不漁のために仕送りはおろか、帰る旅費さえない状況だったのだ。
 米騒動のきっかけは、当時、米の価格が暴騰したことにある。

 1913〜1917年当時の精米小売価格(1升)は、平均で21銭3厘。それが1918年には38銭5厘と、約1.8倍に暴騰した。(当時の大阪堂島米穀取引所による)。これはロシア革命に対する干渉である、シベリア出兵を見越した商社や米問屋の相場師的投機が、ひきおこしたものだった。

 当時の生活では、米が家計に占めていたウェートは、今からは想像つかないくらい高かった。明治後期の資料ではあるが、当時の年間1人あたり食料費は18円19銭、個人消費支出は28円60銭(ともに1890年と1895年の単純平均)。米支出は食料費では52%、個人消費支出では33%を占めていた。この比率は、大正時代に入っても、大きくは変わらなかっただろう。食生活が米に依存していたばかりでなく、家計そのものが米価によって大きく影響される時代だった。

 8月3日には、魚津の女衆たちは180名近くにふくれあがり、ついに米の搬出を阻止する暴動に発展した。「米をほかに売ることは許さないわよ」「その米、安く売りなさいよ」「さもないと家を焼き払って、一家皆殺しにするからね」(当時の新聞報道より意訳)と米屋や浜や町の実力者たちに「断固たる要求」……「脅迫」という人たちもいる……をつきつけた。この事件が、「越中女一揆」の見出しで新聞に掲載された(*1)。

 この米騒動は京都と名古屋に飛び火、15日までに全国の主要都市を席巻した。当時、三井三菱を上回る総合商社だった鈴木商店も焼き討ちにあう。鈴木商店は、第一次世界大戦の戦争成金の代表格だった。

 全国の都市の労働者・職人・貧農たちは、抜剣警官隊と乱闘を演じ、ついに軍の出動により鎮圧される。しかし9月中旬まで、38市153町177村におよぶ未曾有の暴動に発展した。検挙者は2万5千人、うち7786人が起訴され、1審で死刑2人、無期懲役12人、有期刑52人の判決が下されている。

 寺内正毅内閣は、米騒動を報じる記事差し止めを命じたことから、言論界の弾劾にあい、9月21日、内閣総辞職に追い込まれた。そして「初の平民宰相」といわれた原敬首相が誕生した。

 ここで、この米騒動のきっかけになった魚津の女衆46人に注目してみたい。米騒動発祥の地・魚津は、初期労働運動に関わり『日本の下層社会』(1902)を残した横山源之助の出身地でもある。

 1915年に逝去した横山源之助は、もちろん1918年の米騒動をその目で見ることはなかった。しかし生前の横山は、明治期の米騒動に関する作品を遺している。

 やはり魚津出身で、横山源之助の研究者・立花雄一氏によると、横山が報告している明治期の米騒動と、大正期の米騒動は、よく似た形式を持っているという。

 米騒動とは幕末以来、明治・大正にかけて、冨山県下の浦々に呼応して起こる、年中行事のようなものであった。女衆は米価が高くなると米の輸出をとめ、米価をおさえようとした。冨山の浦々では、女たちがそれを遂行するところに、その特異な性格を持っていた。

 冨山県下の漁師町は「かかあ天下」で、特に魚津はその最たるもので、発言権も決定権も女衆が握っていたという。もちろんその陰に、艪をこぐ男衆を支えた女たちの献身があってのことである。魚津の「女衆四十六人」のひとり、江口ツタは当時の生活をこう振り返っている。

 「普段のときでも、ととさだけが米の飯を食べ、女、子供は代用食を食べていた」

 「釜底の飯はくわすな、といい、(釜の)真ん中の飯だけをツゲ(弁当箱)に詰めた」(底は海底=遭難に通じるから)

 「野の草、海の草を主とし、米を少し混ぜて主食とした」

 冨山の浦々の女衆のたたかいは、幕末以来、すでに半世紀以上もの歴史をもっていた。富山の浦々にあった「義倉」は、米騒動の長いたたかいの歴史がかちとった制度である。魚津町(現在・魚津市)では、この貧民救済の制度が、太平洋戦争後に生活保護法が成立するまで続けられたという。

 米騒動には、「一揆」「騒動」のような事件用語はふさわしくない。自由民権運動も、民主主義運動・社会主義運動も、「原始、女性は太陽であった」という名言をのこした平塚雷鳥らの青鞜社の女性解放運動も、生活と民俗に根ざした民衆の持続的なパワーに比べれば、はるかに後発である。海鳴りの底からわきでた、わだつみの女たちが歴史に刻みつけた足跡は、決して消えることはないだろう。

【参考文献】
『鼠 鈴木商店焼き打ち事件』 城山三郎(文春文庫)
『暮らしと物価』 財団法人大阪都市協会
【参考サイト】
「横山源之助と米騒動」立花雄一(大原社会問題研究所雑誌No.487/1996.6 PDF形式)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/487/487-3.pdf


【資料1】
 *1 当時の東京朝日新聞より。

 「富山県中新川郡西水橋町町民の大部分は出稼業者なるが、本年度は出稼先なる樺太は不漁にて、帰路の路銀にも差支ふる有様にて、生活頗る窮迫し、加ふるに昨今の米価暴騰にて、困窮愈其極に達し居れるが、三日午後七時漁師町一帯の女房連二百名は海岸に集合して三隊に分れ、一は浜方有志、一は町有志、一は浜地の米屋及び米所有者を襲ひ、所有米は他に売らざること及び此際義闕的に米の廉売を嘆願し、之を聞かざれば家を焼払ひ、一家を鏖殺すべしと脅迫し、事態頗る穏かならず。斯くと聞きたる東水橋警察署より巡査数名を出動させ、必死となりて解散を命じたるに、漸く午後十一時頃より解散せるも、一部の女達は米屋の附近を徘徊し米を他に売るを警戒し居れり。」