1918年7月18日、ネルソン・マンデラ生まれる。

 「アパルトヘイトを廃止できたのは、もちろんマンデラの同志たちの動員のおかげでもあります。ですが、南アフリカに資本を投下していたり、あるいは白人権力に−−たとえばフランスのように−−武器を提供していたようなあらゆる国は、経済制裁によって困ったことになりました。そのとき、そうした国々は、民主化のほうが市場にとってより好都合となるだろうと考えたのです。

 諸々の原理と利害のこうした出会いを、マンデラはとてもうまく利用する術を心得ていました。彼は原理と省察のひとでもあると同時に戦略家でもあり、そして偉大な戦術家です。彼は白人権力に対して、白人権力自身の原理を反転して突きつけることに成功したのです」(ジャック・デリダ『来たるべき社会のために』岩波書店)

 きょうはマンデラの87歳の誕生日だ。この暦に関係ありそうな人物でいうと、ナセル、チャウシェスク、ソルジェーニツィン、いわさきちひろ等と同年の生まれである。



新書アフリカ史
 マンデラはテムブ人の首長の家に生まれた。1942年に、ウィットウォーターズランド大学で法律の学位を取得している。1944年アフリカ民族会議 ANCに参加、以後、反アパルトヘイト闘争に参加していく。1956年国家反逆罪に問われているが、このときは無罪。1962年に再逮捕され、1964年に終身刑を宣告された。

 1990年2月、デクラーク政権により釈放されるまで、実に28年間も刑務所のなかにあった。1991年に、アフリカ国民会議(ANC)議長に選出され、アパルトヘイトを撤廃したデクラーク政権と和平協定を結び、93年デクラークとともにノーベル平和賞を受賞している。

 1994年の南アフリカの選挙では、ANCが勝利を収め、同国で初めての黒人大統領に選出された。1999年、任期満了に伴い、政界を引退した。

 最近の若者には、アパルトヘイトを知らない人が増えたかもしれない。しかしそうはいいながら、私もたいして詳しく知るわけでない。せめて常識のレベルだけでも、振り返ってみよう。

 アパルトヘイト(apartheid )とは「分離」を意味するアフリカーンス語(*)である。具体的には、 1991年6月に全廃されるまで続いた、南アフリカ共和国の人種隔離制度・政策をさす。それは有色人種、特にアフリカ黒人を劣等と決め付ける人種差別思考の上に成り立つものだった。

 アパルトヘイトの歴史を振り返るには、17世紀半ばにオランダ東インド会社がケープに入植した時代まで遡らねばならない。オランダの没落の後に、ケープを占領したのがイギリス人である。1867年にキンバレーの地でダイアモンド鉱が発見されてからは、ボーア人(オランダ系入植者)とイギリス人の対立はいっそう激化することになった。しかし、帝国主義・植民地主義の争いのせいで、アフリカ人の地位は着実に悪化することになった。

 1911年には最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」が施行される。これは南アフリカが金・ダイアモンド・石炭産業を中心に鉱業国家に転換する時期に、白人と黒人のあいだで職種や賃金格差を取り決めておくものだった。ついで1913年には、「原住民土地法」が施行され、アフリカ人の指定居住区は全土の7.3パーセントに定められた。この法律はアフリカ人の移動を制限して、鉱山、工場、白人農場などでアフリカ人労働者の確保を目的としたものだ。以後、1926年の「産業調整法」では、ストライキを初めとしたアフリカ人労働者の諸権利は奪われ、著しく制限され、1927年には異人種間のセックスを禁じる法律まで施行された。

 1948年に政権を握った国民党は、アフリカーナー (オランダ系白人) を基盤に、より徹底した人種隔離 (差別) 制度−−つまりアパルトヘイトをつくり上げた。

 人口のわずか9パーセントしか占めないボーア人が、約6パーセントを占めるイギリス系白人とともに、「白人」という人種カテゴリーを使って同盟関係を維持した。そして、残りの85%を占める非白人を廉価な労働力として利用し、これら大多数の参政権は認めないという人種隔離・差別制度を、憲法にまで条文化したのが、アパルトヘイトである。

 住民は白人、黒人 (おもにバンツー系)、カラード (白人と有色人種の「混血」) 、アジア人 (おもにインド系) の四つの人種グループに分類された。有色人種の参政権は認められなかった(投票者分離代表法)。また、人種別に居住地域が分離された(集団地域法)。また非白人には、身分証明書その他を記載した照合手帳の常時携行を義務づけられた(パス法)。白人と有色人種の婚姻はおろか性的交渉そのものも禁じられた(雑婚禁止法ならびに背徳法)。公園、海岸、レストラン、劇場、映画館、駅、レストランなど多くの公共施設も人種別に隔離された。

 アフリカ人の側は、こうした馬鹿げた法律にわざと違反した。夜間外出禁止令やパス法などを無視して、白人の街を無言で行進して、進んで逮捕されることを選んだのだ。これは、インドの独立運動やアメリカの黒人の公民権闘争で用いられた、非暴力不服従運動が南アフリカで広まっていく。しかし政府の弾圧が強まるにつれて、アフリカ人青年層の間では不服従闘争に対する不満も高まっていった。1960年3月21日、ANCを飛び出したパン・アフリカニスト会議(PAC)は、「アフリカ人による、アフリカ人のための、アフリカ人の統治」をスローガンに、全国各地でパス法に抗議する集会を展開する。誰もがパスを持たずに警察署まで行進して、「逮捕せよ!」と要求したのだ。このとき、ヨハネスブルグ郊外のシャープビルでは、69人のアフリカ人が警察の一斉射撃に倒れた。

 このシャープビルの虐殺は、世界を揺るがし、国連も「アパルトヘイトは人類最大の犯罪である」と決議する。しかし南アフリカの国民党政府は、国際社会からの孤立もかまわず、よりいっそうアパルトヘイト政策を強めていった。

 1960年3月のシャープビル虐殺事件を契機に、マンデラのANCも、PACとともに非合法化された。もはや非暴力抵抗運動では勝ち目がない。1961年6月、マンデラらは政府との全面対決に向けて、武装闘争部隊「ウムコント・ウェ・シズウェ」(民族の槍)を結成。破壊工作やサボタージュ作戦を開始して、発電所や政府施設を襲撃した。地下に潜ったマンデラは変装して警察の目をくらまし、各地の集会に姿を見せるなど、まさに神出鬼没の活躍をした。

 しかし1962年、「東および中央アフリカのためのパン・アフリカ自由連合」の総会に参加して帰国したマンデラを待ち受けていたのは、逮捕と投獄だった。ストライキ扇動とパスポート不携帯で出国したことを理由として、悪名高いロベン島に収監。次いで、破壊工作を行い国家転覆を図ったとして終身刑の判決を受けた。

 ケープタウン沖のロベン島での投獄生活は悲惨を極めるものだった。しかし次々と投獄されてくる反アパルトヘイトの活動家たちは、監獄条件を改善させる闘いを成功させていった。新しく活動家が投獄されるたびに、新しい情報が伝えられ、監獄は互いに学び合う場所になったのである。そして、この獄中の戦いの常に中心にいたのがマンデラだった。マンデラは全世界に広まった反アパルトヘイト運動の象徴となった。

 1989年に成立したデクラーク政権は、「対話による人種問題の平和的解決」を推進。黒マンデラを仲介として、アパルトヘイトの抜本的改革に向う。マンデラもこの路線を支持して、政府との対話に応じた。1994年には、黒人参政権をかちとり、南アフリカ初めてのマンデラ大統領が誕生する。

 1990年のマンデラ釈放は、東西ドイツの統一とならんで、「世界が変わる」ことを予感させた明るいニュースだった。

 現在、南アフリカには、法律や制度のうえでは、差別も隔離もなくなった。さまざまな分野で、差別是正のための措置(アファーマティブ・アクション)が進められている。しかし、340年以上にわたって続いた人種社会は簡単に崩れそうにない。依然として居住区は人種別であり、教育を受ける機会を奪われ、仕事もないアフリカ人は、法律上白人地区に住める権利があるといわれても、現実的ではない。

 いま、南アフリカの新しい社会建設に向けて問われているのは、これまで闘いの対象だった「敵」を「仲間」に変えていくという、かつてない困難な課題である。これは、人類が今まで経験したことのない困難なたたかいになるだろう。しかし、このたたかいのなかにこそ、進歩と停滞、先進と後進、文明と野蛮に還元する、この世界の構造そのものを乗り越えるアイデアも含まれているはずだ。それは私たちのたたかいでもある。

【参考文献】
『新書アフリカ史』 宮本正興+松田素ニ編(講談社新書)
『来たるべき社会のために』 ジャック・デリダ(岩波書店)
『クロニック 世界全史』(講談社)

* アフリカーンス語 Afrikaans language
現在の南アフリカが1652年にオランダの植民地になったときにもたらされたオランダ語が、独自の発展をとげたもの。