1917年7月16日、ボルシェヴィキ7月蜂起。
 1917年7月16日、ロシアのペトログラードで、第1機関銃連隊が臨時政府打倒のための武装蜂起を開始する。

 機関銃連隊が示威行動を開始して他の部隊や工場に檄をとばしたことをトロツキーが知ったのは、タブリーダ宮殿の会議中のことだった(レーニンは休養のためペトログラードを離れていた)。デモ行進は、自然発生的に、下から、無名の人々のイニシアチブによって生じた。翌日には、デモ行進はさらに広がり、タブリーダ宮殿は民衆であふれた。スローガンは「権力をソヴィエトへ!」だった。

 6月のはじめに、第1回全ロシア・ソヴィエト大会が開かれた。投票権をもつ822名の代議員のうち、285名は社会革命党、248名はメンシェヴィキ、そして105名がボルシェヴィキだった。この大会の最も劇的な瞬間は、その2日め、メンシェヴィキの郵便電信大臣ツェレテリの演説のあいだに生じた。公式の記録によると、以下の通りである。

 ツェレテリ「現在の瞬間には、『われわれの手に権力を与えて出てゆけ、われわれがきみたちにかわろう』というような政府的党派は存在しない。ロシアにはこのような党は存在しない」
 (レーニン、自席から、「存在する」)

 このレーニンの臨時政府に対する宣戦布告は、最初、さほど重大なものとはとられなかった。ボルシェヴィキは会議ではごく少数派だったからだ。次の日15分だけ登壇を許されたレーニンは「わが党はいつでも全政権を担当する用意がある」と演説して、ボルシェヴィキ代議員はここぞとばかり拍手喝采したが、聴衆の大部分は真面目に受け取らなかったし、大会の会場に笑いの波が広がるばかりだった。

 しかし嘲笑はまもなく恐怖に変わっていった。連立政府の権威は薄れつつあった。ドイツ軍との戦況の悪化も、ボルシェヴィキ党に有利に作用した。6月18日のソヴィエト大会が準備した巨大な街頭デモンストレーションでは、掲げられた旗のうち、臨時政府にたいする信頼を表したものは、ほんの一握りにすぎなかった。その旗の90パーセントにしるされたスローガンは、ボルシェヴィキのものであった。クロンシュタットの海軍駐屯地の水兵たちが、ペトログラードの機関銃連隊が、多くの工場労働者たちが、ボルシェヴィキ党中央委員会がそのスローガン「すべての権力をソヴィエトに!」を行動に移すように求めていたのだ。党中央は本当に臨時政府と戦う気があるのかと突き上げた。党外にも、武装政治デモに対する支持が拡大していた。

 レーニンは武装政治デモを組織化するという提案そのものは支持する。労働者階級は「できあいの国家機構」を粉砕し、打ち砕くべきであって、それをそのまま奪取する次元にとどまってはならない(『国家と革命』)。しかしレーニンは6月の軍事組織の会議で、「危険な冒険は避けるべきである」と演説を行っている。蜂起は自殺行為に等しかった。

 「われわれは挑発に乗らないように特に注意し、慎重でなければならない。一歩踏みあやまれば一切の大義が消滅するかもしれない」

 しかし、レーニンは自分の言葉が完全に浸透していないことを知っていた。何が起こっても不思議でない、緊張した政治状況だった。そして、この日、7月3日、重大な人民蜂起が始まったのである

 ボルシェヴィキ党のクセシンスカヤ・マンションの近くには、党の決定的指令を待つ労働者、兵士、水兵の大群が取り巻き、党中央の決定的指令を待っていた。休養先から戻ったレーニンは、バルコニーに出て群衆に話すように求められた。レーニンは、その場に居合わせた党の同志たちに「このことについては、君たちをこっぴどくやっつけねばならない!」と断言した。バルコニーに出て、群衆に対しては冷静さを保てと語った。反政府デモは何よりもまず平和的でなければならないとも語った。この発言の受けはよくなかった。それまで臨時政府を打ち倒せと力強く訴えてきたレーニンならば、ただちに武装蜂起を支持するものと思っていたからだ。

 しかし、この早すぎた蜂起は、レーニンによれば軍事組織の完全な暴走であり、危機を過熱させただけだった。蜂起した兵力だけでは、全ロシアは制圧できない。7月18日の朝、ボルシェヴィキ党は、その日に計画されていたデモの中止を決定して、退却をしめくくった。

 しかし18日になって情勢は一変する。臨時政府のペトログラード護衛部隊が到着。さらに臨時政府は、封印列車(この暦4月22日)を引き合いにして、「レーニンはドイツ政府の補助金を受領している」と、「ドイツのスパイ」というデマ攻撃を開始する。蜂起軍もこの情報に動揺して、武装解除される。

 ボルシェヴィキに対する攻撃が始まった。党の指導者たちへの逮捕命令が発せられ、カーメネフが捕らえられる。さらに大量逮捕があいつぎ、トロツキー、ナチャルスキーも捕らえられる。レーニンおよびジノヴィエフは地下にもぐり、やがてフィンランドに逃れた。

 とはいえ、このボルシェヴィキに対する臨時政府の捜査はかなりずさんなものだったようだ。兵士たちはエリザロフをレーニンと間違え、彼とクルプスカヤを拘留した。エリザロフは背が高く、身体は大柄だった。このことは、レーニンがほとんど外国にいて、その風貌がほとんど知られていなかったことを示すエピソードである。

 この七月蜂起の失敗は、重大な後退だった。しかし、第六回党大会で、−−レーニンはフィンランドにあり、トロツキーは獄中にあったが、−−ボルシェヴィキ(レーニン派)とメジュライオンツィ(トロツキー派)の合同が実現する。最後に、トロツキーライブラリーより、トロツキーが獄中で書いたパンフレットにリンクを貼っておきたい。

【参考文献】
『ボリシェヴィキ革命』 E.H.カー (みすず書房)
『わが生涯』 L.トロツキー (岩波文庫)
『レーニン』 ロバート・サーヴィス(岩波書店)
『20世紀全記録 Chronik 1900-1986』 (講談社)

【参考サイト】
トロツキー・ライブラリー「次は何か 総括と展望」(1917年)
http://www.trotsky-library.com/