1922年7月15日、日本共産党創立。

 創立会議が開かれたのは、コミンテルン極東大会に徳田球一とともに参加した高瀬清の間借り部屋だった。出席したのは、堺利彦、山川均、近藤栄蔵、吉川守国、橋浦時雄、高津正道、渡辺満三の計8人である。
 創立会議の議題は、コミンテルン規約とコミンテルン21カ条の加盟条件、それに日本共産党がコミンテルンの一支部になるかどうかを採決することだった。会議は異議なくこれを可決し、党の結成を正式に決定。日本共産党がコミンテルン支部として正式承認されるのは、11月のコミンテルン第四回大会の席上である。

 1901年の社会民主党の結成に始まる日本の社会主義運動は、大逆事件でいったん終息させられたかにみえた。共産党が結成するに至った当時の社会情勢、どんなものだったろう? まず、第一次大戦(1914−1918)のドイツ軍国主義に対する民主主義の擁護というデモクラシー勃興の波が、日本にも押し寄せていたことがあげられる。日本資本主義の発達にともなう階級矛盾・社会矛盾の拡大から、労働運動や農民運動も急展開をはじめていた。普通選挙権獲得運動も、大衆的政治運動となる。この背景には、内では米騒動以来の大衆運動の発展が労働大衆が自信を持ち始めていたこと、外では1917年のロシア革命の成功があった。

 創立メンバーの一人、山川均はロシア革命の感激をこう振り返る。

 「ロシア革命の日本への影響は大きかったですね。私自身にしても、受けた影響は、生涯のうちで最も大きな影響だと言っていいでしょう。それは今までも革命、革命ということは、しょっちゅう読みもし言ってきたんですけれども、革命とはどんなものか、どこにもそういうものはないのですから、本当にこれは観念的なものです、この革命が現実に示されたのですからね。これは非常な影響を与えたわけです。非常な感激ですね。イギリス労働党のアナイリン・ペヴァンがロシア革命の報道が初めてきた時、イギリス労働者は街上で相擁して泣いたと言っていますが、日本でもそのとおりです。私は、そのころ荒畑君(荒畑寒村)とやっていた労働組合研究会でロシア革命の話をしたのですが、どうも涙が出て話ができなかったことがあります。それほど感激を与えたんですね」(『山川均自伝』)

 幸徳秋水らの先覚者が、その思想のために獄中に縊られた社会主義革命は、もはや夢でも理想でもないことが、ロシアにおいて実際に証明されたのだ。ロシア革命は、「冬の時代」を生きのびた社会主義者を勇気づけたばかりでない。社会主義運動の組織論、戦略・戦術にもパラダイム・チェンジをもたらした。このなかで、社会主義運動も急速に思想的に結晶化して、アナキズム対ボリシェヴィズム、いわゆるアナ・ボル論争が思想界と労働運動にも火の手をあげる。アナ系は大杉栄を中心とした週刊『労働運動』に拠り、ボル系は堺利彦、山川均の月刊『社会主義運動』、荒畑寒村の『日本労働新聞』をその機関とした。

 堺利彦のような老指導者は、ただちに共産党をつくるというよりは、共産主義宣伝のグループを組織して、労働組合運動の内部に広く共産主義思想を流布して後に、大衆的基盤の上に党を結成することを考えていた。しかし、青年層の即時結党の大勢におされる形で、秘密裏に日本共産党が結成されることになる。

 今年はおりしも戦後60年であり、7月20日に日比谷公会堂で開催される党創立記念講演会では、志位委員長は「戦後六十年と日本共産党」、市田書記局長は「時代をひらく強く大きな党を」の演題でそれぞれ講演するという。

 さあ、結党83年を迎える日本共産党に、どんなことばをおくろうか? 読者の皆さんも考えてみてほしい。私も考えてみたが、何か明るい未来への希望のようなことを語れば嘘になるだろう。しかし、絶望するのもまだ早すぎる。いや、ある種の人々から見たら、遅すぎるというべきかもしれないが、どちらにせよ引き返すことはできない。共産党の皆さんもそうだろうし、キンピー君も私もそうだ。獄中の幸徳秋水のことばを、あげておくことにしたい。

  途窮未祷神−−途(みち)窮すれど未だ神に祈らず