1789年7月14日、パリの民衆、バスティーユ牢獄を襲撃。

 「暴動か」と尋ねたルイ16世に、側近は「いえ、陛下、革命でございます」と答えたと伝えられている。

 「パリを離れて統治を行う王は、やがてその王位を失う」といわれる。革命の中心地パリは、当時人口およそ60万人。第三身分のブルジョアジーを中心に、パリの目はもっぱら商業に向けられた。パリ市民は王族の干渉をきらい、政治的な発言も強めていった。郊外の安全なヴェルサイユにいても、ついにルイ16世も革命の運命を逃れることはできなかった。

 パリにおける政治的緊張は、数日前から極度に高まっていた。1788年からの凶作のために、春以来、穀物価格は上昇し続けた。1789年には、パン一斤の値段が8スウから14.5スウに値上がりして、パリの下層民衆は賃金の半分以上をパン購入にあてねばならないほど逼迫していた。深刻な食糧危機、インフレ、貧困などの問題に直面していた。

 他方、175年ぶりにヴェルサイユで開催された全国三部会は、5月5日以来、空転を続けていた。身分別投票(一身分に一票)か個人別投票かをめぐって紛糾して、対立が続いていた。6月に入っても、議決方式さえ決まらなかった。

 第三身分代表は、ほかの身分の代表者にも合流を訴えて、自らを「国民会議」と名づけた。第三身分は定数倍増を勝ち取り、特権身分代表とほぼ同数。第一身分(聖職者代表)と第二身分(貴族代表)がそれぞれ300名、第三身分が600名である。

 第一身分のうち高位聖職者は1/3のみで、その他は第三身分に同情的な下級聖職者の司祭たちで構成されていた。貴族代表にも、ラ・ファイエットなどの自由主義貴族も90名含まれていた。三部会での投票は、個人別投票でいくのならば、勝利をおさめることが保証されていたのだ。

 こうしたなかで、国王政府は議会を制圧するために、外国人傭兵を中心にした16連隊12万の軍隊をパリ近郊に集結させ、この軍事力を背景に、民衆に人気のあった財務長官ネッケルを罷免する。

 7月12日、このネッケル罷免の報が、状況を決定的に悪化させた。パリのブルジョアジーや民衆は武装を開始する。7月14日の朝、群衆は廃兵院を襲撃して、28000丁以上のマスコット銃を奪取。しかし火薬と薬包はほとんどなかった。弾薬を求めて、民衆は標的をバスティーユに標的を変更する。

 このバスティーユ牢獄は、もとを正せば14世紀にパリ防衛のために築かれた要塞である。しかしブルボン朝のもとでは国王が恣意的に政治犯を投獄するための牢獄として使用されていて、専制政治の象徴とされてきた。しかしこのとき囚人はたったの7人で、政治犯はひとりもいなかった。民衆の目的はあくまでも武器弾薬の引渡しである。

 押しかけた民衆に守備隊が発砲して戦闘となり、民衆は100名以上の犠牲者を出しながらパスティーユを陥落させる。バスティーユ陥落の知らせは、国王政府を驚愕させ、屈服させた。ルイ16世は軍隊の撤退を指示し、ネッケルを復職させ、さらにはパリに赴いて新たに成立した市当局とブルジョアジー民兵である国民衛兵を承認する。

 こうして市民革命の勝利により、各都市のブルジョアジーが常設委員会を設置して、政治の実権を握っていく。フランス革命がここに始まる。

【参考文献】
『クロニック世界全史』(講談社)
『フランス革命』 ロバート・モウルダー(現代書館)
『ラルース世界史人物百科』(原書房)