1950年7月11日、日本労働組合総評議会(総評)結成。17組合397万人が参加 
 この当時はまさに、朝鮮戦争の緊迫する情勢のさなかにあった。総評結成大会が開かれた同じ日に、朝鮮戦争の前線基地だった小倉市の米軍基地城野キャンプでは、黒人兵250人がトラックで脱走して、市内で暴動を起こし米軍と市街戦を展開している(7月15日に鎮圧)。黒人兵と白人兵の対立が原因だったといわれる。

 総評の結成大会では、日本共産党の「組合支配」と「暴力革命路線」を排除し、「自由にして民主的なる労働組合による労働戦線統一をめざす」ことが強調された。

 「労働者の諸要求は、国民経済力との多正しい関連のもとにうちたてられ、かつ労働者みずからの建設的計画のもとに推進さるべきであって、この建設的努力にさからい、経済の安定と社会の繁栄を故意に阻害せんとするごとき破壊的極左労働運動は、絶対に容認さるべきでない」(7月12日総評結成大会)

 このように共産党を批判して、「平和的立憲的手段によって社会主義社会を実現せんとする政党と積極的に協力提携して闘わなければならぬ」と述べて、社会党との提携方針を明らかにした。

 この総評結成にたいして、共産党や産別会議が、「分裂主義者」「社会ファシスト」と非難したのはいうまでもない。たしかに、総評結成は、共産党を排除するという、GHQや政府の好意的な対応に助けられていた面はある。

 しかし他人を批判をする前に、当時の共産党にも責任があり、反省しなければならないことはたくさんある。共産党が労働運動に影響を失っていくのは、戦後公務員労働闘争を牽引した国鉄労働組合運動は、1949年夏の解雇反対闘争の挫折と敗北が決定的だった。この夏の国労中央委員会では、共産党の指導に反対する民主化同盟によって、中央執行委員会を完全を奪い取られてしまった。

 解雇の対象となった労働者の打撃は深刻だったが、労働者大衆は、ドッジラインによるインフレ収束による戦後復興を現実の前提として、労働者大衆は「安心」と「安定」を求めつつあった。これはレーニン風にいえば、敗戦帝国主義の腐朽化と寄生化の問題ということになるだろうか。体制左翼の限界は、能力主義的・功利主義的な機会均等を、民主主義と同一視してきたところにある。

 1949年11月に、この国労も含む全労連を脱退した諸組合が、「全国労働組合統一準備会」を結成して、それが総評の母体となる。この統一準備会には、国労のほかに、総同盟、全逓、日教組、都労連、海員組合、全鉱、炭労、私鉄総連の代表などが参加していた。

 国民春闘、安保闘争、三井三池闘争、護憲平和闘争などにおいて総評の果たした役割は大きなものだ。そして、総評がその基点において、労働組合の政党や経営からの「自律性」を強調したことは、それ自体として基本的に正しいものである。しかし、総評の歴史は、実質的に70年代前半の国民春闘で終わっている。総評内部でも、日本共産党の介入は批判しても、社会党との関係は不問に付されてきたのではないだろうか? 結局、共産党の悪いところをソフトにしただけで、本質はたいして変わらなかったともいえる。

 ナショナル・センターとしての総評解散と、「連合」以降の労働運動の現状と課題についても、いつか触れてみたい。