1955年7月9日、ラッセル=アインシュタイン声明

 半世紀前のこの日、イギリスの哲学者B.ラッセルらが核兵器廃棄などを提唱した声明。

 この日の声明は、米ソの核軍備競争の激化を背景にして、ラッセルがこの年の4月に亡くなった物理学者 A.アインシュタインとの話し合いがきっかけだった。この年の4月湯川秀樹を含む世界の著名な学者8人の署名を得てアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、カナダ6ヵ国の元首または首相に送られた。

 この声明は核戦争の大規模な破壊性を説くものであり、国際紛争の解決のためには戦争に訴えることなく、平和的手段を発見することを勧告すると同時に全面的軍備撤廃の一部としての核兵器廃棄などを主張した。

 この声明は世界的に反響を呼び、パグウォッシュ会議(科学と国際問題に関する会議 Conference on Science and World Affairs)が開かれるきっかけにもなった。このカナダのパグウォッシュで開かれた会議には、東西の科学者22人が参加して、「科学者の社会的責任」「核兵器の管理」「原子力の利用と危険」をテーマとして討議し、核実験による人体への影響を警告して、「原水爆実験を禁止せよ」との声明を発表した。

 このラッセル=アインシュタイン声明と前後して、米英仏ソ4国の巨頭会談がスイスのジュネーブで開かれている(7月18日)。これは第2次大戦後初めての東西首脳となるものだった。

 戦後10年、東西の両陣営は、アメリカは「核とドルの傘」による反共軍事ブロック化を進め、北大西洋条約機構(NATO)を推し進めていた。ソ連も西ドイツのNATO加盟に対抗して、東ドイツ含む東欧8ヵ国との間にワルシャワ条約機構を締結している。これは東西ドイツの分裂を固定化するものであり、冷戦体制を確立するものだった。

 1955年11月には、ソ連は最大規模の新型の水爆実験を行ったことを発表して、世界に衝撃を与えている。フルシチョフは、この新しい爆弾がTNT火薬100万トンに匹敵する爆発力があることを明らかにして、「この核爆発はもはや戦争が不可能であることを証明した」とその成果を誇った。

 しかし、核軍拡競争は、戦争を不可能にしたばかりでない。平和をも不可能にしたものだった。当時の左翼文献から同時代の文章を引用することにしてみたい。

 「ソヴェト政府は、資本主義制度と社会主義制度とは、たがいに経済的に競争しながら、まったく平和的に共存してゆくことができるという立場に立ってきたし、いまも立っている。われわれはこの立場から出発して、平和と国際的協力の強化の政策を一貫してとっている。しかしながら、もし侵略者層が原子兵器をたのみにして、あえて無分別なことをやろうと決心し、ソヴェト同盟の力量と威力をためそうと欲するなら、侵略者がその同じ兵器で壊滅され、このような冒険が不可避的に資本主義社会制度の崩壊をもたらすことは、疑う余地がない。」(マレンコフ「ソ同盟最高ソヴェト会議における演説」1954年4月26日)

 「祖国の全運命−−人類の生存にかんする死活のたたかいとしての平和闘争は、同時に、ソ同盟の共産主義社会建設の利益に完全に一致していることをおしえている。ここに現在の平和闘争のもつ世界史的な意義がある。全人類は、平和の大統一行動を通じて、アメリカ帝国主義者を孤立させるとともに、共産主義社会建設の大業をまもり、この事業に参加するという偉大な使命を必然的に歩んでいる」(「平和の徹底した戦士−−共産主義者」−−『前衛』1954年6月号)

 「原子兵器」によって壊滅されるのは、まず誰よりも、資本主義体制下の民衆ではないのか! 当時のソ連や共産党の主張していた「平和的共存」の理論は、恒久平和を実現するための「過渡的な」措置だと説明されていた。しかし、核軍拡を推し進めるソ連に、世界史と人類の未来を託するという、それ自体が社会主義と矛盾した考えをどうして認めることができるだろうか? 社会主義体制の強化と発展による「資本主義の廃絶」という理論そのものが虚妄であり、何らの現実性をも持たないものではなかったろうか? ソ連と共産党に加担することが「平和勢力」だという、戦後左翼の反戦平和運動の偽善と独善の原点がそこにはあった。もちろん、このような連中は、蹴散らし、踏み越えていくまでである。

【参考文献】
『20世紀全記録 Chronik1900−1986』(講談社)
『平和的共存と民族解放の理論』レーニン・スターリン・トレーズ・マレンコフ(駿台社)