1937年7月7日、蘆溝橋事件。
 北京南西6キロ、永定河にかかる盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に向けて十数発の銃声がとどろいた。日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。中国では「七七事件」として知られる。

 11日未明には現地で停戦が成立した。しかし、同じ11日、当初不拡大方針を声明していた第1次近衛内閣は陸軍に押し切られて3個師団の動員を決定。軍部内でも拡大派と不拡大派が激しく対立しながら、戦線は泥沼的に拡大して、28日の北京・天津総攻撃の開始をもって、全面的な戦争に突入した。

 最初の十数発の射撃が、日本側の謀略か抗日勢力によるものか、真相は不明とされている。フリー百科事典ウィキペディアでも、編集合戦が続いているようだ。

 中国側では抗日の機運が高まり、蒋介石の国民政府軍と延安にいた毛沢東の中国共産党軍(紅軍)の間で、抗日民族統一戦線が成立する。戦争が拡大するなかで、この翌月、8月22日には、華北にいた紅軍が国民革命軍第八路軍に改編された。

 第二次国共合作が成立したのは、この前年の12月の西安事件である。

 旧東北軍を指揮する国民政府軍の張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の抗日民族統一戦線に対して共鳴しており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。紅軍討伐を監督激励するため西安に飛んできた蒋介石を、逆に張学良は山上に追い込んで軟禁してしまう。そして「内戦の停止」「諸党派共同の救国」などを8項目蒋介石に要求する。国民党政府は張学良討伐を決定、東北軍内部でも蒋介石処刑の声もあった。しかしこの危機のなかで、共産党の周恩来、葉剣英らの説得もあり、蒋は8項目の要求に合意。この西安事件によって、中国の抗日運動は統一に向う。

 この第2次国共合作は、まさに大きな歴史の転換点だった。しかし日本は中国が今や一つになろうとしていることを、全く理解していなかった。軍閥の頭領の張学良が「下克上」のクーデターを起こしたという程度の情勢認識しかなかった。そこにあったのは度し難い中国蔑視である。陸軍統制派の「対中国一撃論」に、日本の世論も傾いていった。

 盧溝橋事件の一発の銃弾で戦争が始まってしまったかのように語られることが少なくない。しかし、実際には、そのような単純なものではないだろう。日本政府の「不拡大方針」にもかかわらず、現地軍の独走からなし崩しで、日中戦争は泥沼的に拡大して、太平洋戦争へと歴史の歯車が動いていった。当時の永井荷風の日記より。

 「日本現代の禍根(かこん)は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も、これを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起こる事なり。然り而うして個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なり」