1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。

 朝鮮民主主義共和国軍(北朝鮮)第6師団の砲撃開始は、1950年6月25日午前5時25分だった。ただちに北朝鮮軍は南下して、春川、開城などを占領、ソウルまで40キロまで迫った。
 アメリカのトルーマン大統領は同日(アメリカ時間24日午後10過ぎ)、週末保養先で緊急電話を受けた。トルーマンは、その場で国連安保理事会の開催の要求を指示すると同時に、韓国軍に対する援助を決定する。

 25日の国連安保理事会は、ソ連欠席のまま、北朝鮮の武力攻撃を侵略と断定して、戦闘行為の即時停止と38度線以北への撤退要請を決議した。しかし金日成は、「わが祖国の南半分を李承晩一味から解放する」と演説して、これに応えた。

 党員や同盟員の方々には、いまこのブログでも話題になっている萩原遼氏の『朝鮮戦争』(文春文庫)に一度は目を通されることをおすすめしておきたい。版元は文春なのが気に入らなければ、図書館で借りるだけでもいい。

 「朝鮮戦争という数百万人もの人命を失った悲劇のおこりを調べていくうえで、その悲劇のそもそもはどこなのか、ということになると、やはりソ連軍の北朝鮮占領と、朝鮮人民になんの足場ももたないソ連軍子飼いのキム・ソジュンがつれてこられた事実をさけて通るわけにはいかない」(『朝鮮戦争』萩原遼)

 ソ連は、朝鮮半島の解放を朝鮮民族に任せるのでなく、中国出身の朝鮮族であるソ連軍大尉のキム・ソンジュを「抗日英雄の金日成将軍」にすりかえて、占領政策の手足に使った。これが悲劇の始まりだった。

 しかし、これは萩原氏に対する素朴な疑問なのだが、金日成はたんなる傀儡だったのだろうか。1949年3月にモスクワを訪ねた金日成は、スターリンと会談して、「全国土の武力解放」「攻勢をとる」と提起したが、「いまはだめだ」と退けられた。しかしそれに懲りることはなかった。その後も金日成と李承晩の南北両政権は武力統一の計画を進めながら、衝突を繰り返していた。資料を見る限り、中ソ間のズレと情勢変化をたくみに利用して、ついにスターリンを味方につけ、毛沢東も反対ができないように追い込んだ金日成の「外交手腕」が印象に残る。

 しかしこの朝鮮戦争は、とんでもない誤算の連続だった。金日成とスターリンの目論見では、3日で終わるはずの戦争だったという。もちろん、7月になっても8月になっても戦闘は終わらなかった。最大の判断のミスは、萩原氏も指摘するように、米国の介入を予期しなかったことだろう。米国の介入がないことを前提に、南の解放きわめて短期間に終わるとたかをくくっていた金日成の目論見は、ものの見事に裏切られた。人民軍が南進すれば南労党(南朝鮮労働党員)20万人が呼応してゲリラ戦争に立ち上がるというのが、北朝鮮の見方だったが、これも実現しなかった。しかしこのときに南の反政府闘争はほぼ壊滅していた。結局、南人民の支持を得ることもできずに、戦争は泥沼化する。

 朝鮮戦争は、いまの南北朝鮮の問題を解くための鍵である。このことは同時に、朝鮮人民のたたかいを「日本プロレタリアートのうしろ盾まえ盾」(中野重治「雨の降る品川駅」)として、ご都合主義的に利用してきた日本左翼の歴史と現在を問い直すことでもある。


【参考文献】
『朝鮮戦争』 萩原遼(文春文庫)
『毛沢東の朝鮮戦争』 朱健栄(岩波現代文庫)