1953年6月17日、東ベルリンで反ソ暴動がゼネストに発展。ソ連戦車が出動し16人が死亡する(ベルリン暴動)。
 このベルリン暴動は、東ドイツ政府が発表した生産割当増大計画を引き金とした、反政府デモがきっかけとなったものである。

 政府は労働ノルマ引き上げは前日の夕方に撤回したが、食料品などの物資欠乏による生活不満の爆発は収まることがなかった。約3万人の労働者が続々と繰り出して、ポツダム広場の官庁街に集結。ソ連大使館に押しかけたデモ隊は、「全ドイツ自由選挙を行え」「ソ連人は帰れ」と怒りをぶつけた。また運輸労働者が正午からゼネストに突入、東ベルリンのほぼ全域で交通がストップした。

 ソ連軍は午後1時すぎ、東ベルリンに戒厳令を発令。翌日にはこの戒厳令は東ドイツ全域に拡大された。19日には反政府闘争は完全に制圧された、……逮捕者は5万人にもおよんだ。

 この6月のベルリン暴動は、公式のDDR歴史記述では、「帝国主義の陰謀」であり、「西によって操られた反革命的、ファシスト的なクーデターの試み」であるとされた。「情報部員や買収された連中」がDDRに「こっそり」送り込まれ、そこで住民の一部をデモやストライキへとそそのかしたのだとされた。DDRにある約1万の町村のうち騒ぎになったのは「たったの」272の町村においてだけであり、しかも「帝国主義的な秘密諜報員がその足場を持っているところ」でしかなった。しかしながら「平和や社会主義に対する帝国主義的な陰謀者たち」は、悲惨な結果を喫した。「労働者階級の党」の指導のもとに、勤労者、国家機関、「労働者と農民の国の武装勢力」が、「ファシスト的な暴動」を失敗に終わらせた。党の諸組織は、その確固たることを実証したのである(シュテファン・デールンベルグ、東ベルリン、1965年)。

 「帝国主義の陰謀」というのは、いつでも繰り返される常套句である。しかし、たしかにデモ隊が、強制収容所の指揮官エルナ・ドルンのごとき、有罪判決を受けた戦争犯罪人を刑務所から解放した事実も、見落としてはならないだろう。反政府デモ隊はこの女性に「マルクト広場で激励演説」を行わせている。このことは、ブレヒトを憤激させた。

 もちろんブレヒトは、けして「反革命暴動」とばかり一面化したりはしなかった。このベルリン暴動は、「社会主義の建設にあたっての民族の不幸」として、つまり革命を自分の手で行ったわけでないのに、革命的な課題を処理しなければならない民族の不幸としてとらえられていた。ベルトレヒト・ブレヒトは「解決」という詩に次のような結びの句を添えた。

 「作家同盟書記がこう訴えた、人民は
  政府の信用を失った
  労働の二倍強化によってのみ
  信用は回復されうる、と。
  それならば、政府が人民を解散し、
  別の人民を選んだ方が
  より簡単ではないのかね?」

 「ドイツ民主共和国は、人民の利益とインターナショナルな義務に忠実にして、その領土からドイツ軍国主義とナチズムとを根絶した」とドイツ民主共和国憲法には記されている。廃墟から立ち上がって、新しい社会主義国家の建設をめざしたはずのドイツ民主共和国(DDR)で、なぜ抑圧的な構造が作り出されてしまったのか?
 ドイツはけして自分の手でファシズムから解放されたのではない。この6月17日の経験は、あいかわらず克服されていないファシズムの危険について、ブレヒトに深く考えさせるきっかけになった。

 「われわれはあまりにも早く身近な過去に背を向けてしまい、むさぼるように未来の方に身を転じた。だが未来は、過去の清算に左右されることになるだろう」(ブレヒト)

【参考文献】
『20世紀全記録 Chronik 1900−1986』(講談社)
『いま、なぜネオナチか?』 ベルント・ジーグラー/有賀健+岡田浩平訳(三元社)