1859年6月11日、オーストリアの宰相メッテルニヒ歿。86歳だった。

 メッテルニヒといえば、あの『共産党宣言』の有名な序文にも名前が出てくる。「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる。法王とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの官憲も」
 フランス革命とナポレオン時代以降のヨーロッパは、社会的・政治的に保守主義に回帰していくが、その象徴ともいえるのがメッテルニヒだった。
メッテルニヒを議長としたウィーン会議(1815年)は、保守的な君主制の原理を擁護し、東ヨーロッパの諸民族の独立を無視して、敵対するプロイセンとロシアの領土伸張の野望を食い止めることによって成立した。こうしてポーランドは分割され、ロシアの西方拡大の障壁とされた。ウィーン会議によって策定されたヨーロッパの領土地図は、この後半世紀続くことになる。

 さて、「共産主義の妖怪」を討伐するために神聖な同盟を結んだメッテルニヒとギゾーを権力の座から引きずりおろしたのが、1848年革命であった。

 1848年2月のフランス革命の発端は、ギゾーが選挙制度の抜本的改革をかたくなに跳ね付けたことにあった。ギゾーは罷免され、ルイ・フィリップは退位した。この革命の波は、1848年3月13日のウィーン蜂起にも波及する。メッテルニヒも辞職を要求され、イギリス、ついでブリュッセルに亡命しなければならなかった。革命が敗れて反動が復活した後にも、ついにメッテルニヒもギゾーも政治の表舞台に戻ることはなかった。

 ドイツに戻り、『新ライン新聞』を創刊したマルクスは、8月27日から9月7日まで、ウィーンに滞在している。ウィーン労働者協会で行った講演が、有名な『賃労働と資本』のもとになっている。マルクスとエンゲルスは、革命以前のオーストリアをどのように見ていたのだろうか。エンゲルスのオーストリア論は、つぎのようなものだった。

 「ドイツの中国」「最近の対英戦争以前のシナ」「相続と盗みによりかきあつめられた諸色雑然たる君主国オーストリア、10の国語と10の民族のごったまぜの組織体、相互に矛盾をきわめた習俗と法律の無計画な合成物」「ドナウ河、アルプス、それにベーメンの岩の胸壁−−これがオーストリアの野蛮とオーストリア王国の存立の基盤である」

 つまり交通不便なアルプスの背後に隠れた「ヨーロッパのなかの野蛮国」だというのだ。もちろん、オーストリアが遅れた反動的社会だったというイメージは、マルクス・エンゲルスに固有のものではなかった。当時の西欧の知識人に共通するものだった。

 しかし……マルクス・エンゲルスは次のようにいう……その「野蛮国」オーストラリアといえども、工業化の波は避けることはできない。共同体は解体して私的所有が生み出され、中世の遺物である農民がプロレタリアートになっていくだろう。これは後にマルクスが「資本の文明化作用」と名づけた問題である。

 しかし「資本の文明化作用」には、マルクスが「ルンペン・プロレタリアート」を蔑視したと同じ難問がひそんでいるといえるだろう。「野蛮人」はどうしても文明化しなければならないものなのだろうか? もちろん、自国民の支配のほうがましという立場もあるだろう。このような西欧文明に対する反動としての民族主義を、ネグリなどは「サバルタン民族主義」とよんでいる。

 問題をこういいかえてみよう。黒船の来襲を受けるより江戸幕府の支配が続いたほうがましだったろうか?イラクの人々は、アメリカに支配を受けるよりフセインに支配され続けたほうが幸せだっただろうか? この問いには、そうかんたんには答えることができないはずである。

 いま、「作る会」の「新しい歴史教科書」や靖国参拝が問題になっている。もちろん私はこのような動きに反対である。しかし「侵略戦争の賛美」「戦前の軍国主義への回帰」と批判するだけでは十分ではない。佐野・鍋山の転向声明の項で触れたように、「階級」と「民族」、「社会主義」と「天皇制」、「大東亜共栄圏」と「コミンテルン」という、本来相容れないはずの正反対な概念でさえ、左翼インテリゲンチャには情況が変わればいつでも取り替えの効く理念にすぎなかった。同時に、ナチズムや大東亜共栄圏の超国家主義も、ボルシェヴィキ革命の影響なくして生まれることはなかったことを知っておく必要がある。

 マルクスのいう「資本の文明化作用」は、いわば古くて新しい問題なのだ。マルクス主義も、エリート的な進歩主義と無関係ではなかった。この根本的な欠如こそ乗り越えられなければならない課題なのである。人類は文明の進歩や、エリートの作る社会のために存在しているのではない。そんなところに人間の存在理由も革命の課題もありはしない。

 1859年、ウィーンでメッテルニヒが亡くなった日、マルクスの『経済学批判』が刊行された。もちろん、これはたんなる偶然の一致にすぎない。ウィーン滞在中のマルクスについては、また次の機会に触れることによう。

【参考文献】
『図説 ラルース世界史人物百科』 フランソワ・トレモンリエール+カトリーヌ・リシ編(原書房)
『1848年 ウィーンのマルクス』 ヘルバート・シュタイナー(未来社)