A男「なぜ君は彼女と結婚しないんだね?」
共介「彼女、ちょっと言語障害があるんでね」
A男「それは気の毒だな。ひどいのかい?」
共介「うん、彼女、どうしても『YES』って言えないんだ」

自分の認識の誤りに気づかない男の話ですが、6月5日のblog、天皇制容認を読んで、この話を思い出しました。共産党中央委員会の発表には、とかく「真理」という言葉が出てきます。そして「真理は我に有り」と言わんばかりに、持論を展開していくわけですが、はたして「真理」だけを教えられた党員たちと、大衆との対話は成り立つのでしょうか。そこには対等な対話ではなく、一方的に「教える」関係しか成り立たないのではないかと思われます。
また無謬の存在などありえないわけですから、そもそも中央委員会の方針に誤りがあるかもしれません。しかし、党内ではそれを容認する方向で討議がされ、機関紙もそれを推奨する記事を垂れ流し続けていますから、方針そのものにチェックが入ることはありません。
そうした如何わしい「真理」を絶対の物として世間に押し付けた結果が、今の議席に少なからず反映しているように思えてなりません。

「ある真実を教えることよりも、いつも真実を見出すにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。」と言われますが、「真実」を「真理」に置き換えても同じことで、共産党にはそれが必要に思われます。

罵詈争論でした。