いつもお世話になっている「今日は何の日〜毎日が記念日」(http://www.nannohi.jp/06/09.html)サイトを見ていると、きょうは記念日のあたり日である。

 「ロックの日」(ロックデー)……これは語呂合わせでわかりやすい。

 「リサイクルの日」……6と9を組み合わせると巴の形になり、それを消費者と生産者に見立てたもの。

 「ポルノの日」……いわゆるシックスナインで、そうなる理由はリサイクルの日とほぼ同じである。

 「ネッシーの日」……1933年6月9日、スコットランドのネス湖に巨大な怪獣が棲むという記事が写真とともに新聞に掲載された(後にトリック写真と判明)。

 「ドナルドダックの誕生日」……1934年6月9日、ウォルト・ディズニーの『かしこいメンドリ』でドナルドダックが初登場した。主役のミッキーマウスがよい子になりすぎたので、いたずらを引き起こすキャラクターとして新たに登場したのだとか。

 アメリカでドナルドダックの生まれた日、日本では一人の男に懲役15年の判決が下った。武装共産党時代の委員長・田中清玄である。
 四・一六事件で大きな打撃をうけた共産党は、田中清玄を委員長にして、佐野博・前納善四郎などを中心に再建に向った。この時代の指導部は、戦後の共産党からも「ルンペン・プロレタリア的冒険主義」と呼んで否定した武装闘争路線の始まりである。こんにちの宮本−不破ラインの党中央にとっては、あまり知ってほしくないし、考えてほしくない過去だろう。

 1930年の東京市電争議では、<武装自衛団を組織してスキャップ(スト破り)どもに徹底的に赤色テロを加えると同時に、電力の輸送路を破壊し、電車、自動車の運転機械をぶちこわせ>というのがその指導方針だった。同年のメーデーでは、日本石油の共産党細胞が中心になり、川崎で「武装メーデー事件」を起こしている。ピストル・短刀・竹やりなどで武装して、東京まで武装デモを貫徹して、皇居を乗っ取ろうという壮大な計画だった。しかしその武装デモ隊たるや2、30人の小部隊で、一般のメーデー参加者とのあいだで大乱闘を起こしただけで不発に終わった。しかしこの「極左」冒険主義も、当時の弾圧により共産党が追い詰められていたこと、また権力による白色テロによって挑発されたものであることも、無視できない。

 田中清玄は獄中で転向。戦後は、1960年の安保全学連に対する資金カンパのエピソードで有名になった。
 「今更申す迄もない事だが、自分には諸君を「極左冒険主義的ハネ上がり」であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全く無い。嘗つて、自分等の突っ走った、昭和五年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷四十八件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君等に非難を浴びせる事などは到底出来ない。」(田中清玄「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」、『文藝春秋』1960年1月号)

 戦後の田中清玄には「反共右翼の黒幕」というレッテルが貼られて、それがまた何事かであるように語られてきた。しかし高杉公望氏のいうように、その政治的立場はせいぜいリベラル右派であり、「黒幕」といっても岸政権打倒闘争の利害の一致から全学連に協力を申し出たにすぎない。つまり、田中清玄とは、「戦前の一時期、日本共産党の委員長を経験したのち、転向し紆余曲折を経て土建業者となったにすぎない。また、その転向後の政治思想的な位置は、リベラル右派といったところであった。リベラル右派の立場から、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったというのが偽らぬところであった。」(高杉公望「田中清玄と安保全学連問題の実像」)。

 「どのような色がついていようが金に変わりはない。必要な資金を調達すること」

 これが戦後左翼の指導者のなかで最高の逸材である、ブント書記長島成郎の財政方針である。当時の全学連とブントの財政活動は、新聞や雑誌の記事をチェックして、少しでも自分たちに肯定的な意見や反応をかぎとると、それが誰であろうと面会を求めて押しかけていくものだったという。自民党代議士、俳優、文化人、銀行家、宗教者、商業者、病院経営者、はては任侠の徒まで。このなかで、新宿商店連合会青年部のように、数百人のデモ隊が「民族社会党」の旗をかかげて全学連主流派に合流する一幕もあった。

 政治にも運動にも金がかかる。これは選挙闘争やストライキ闘争をやった経験がある者なら、だれでも痛感していることだろう。60年安保の頃には、早稲田車庫から国会議事堂までの都電チャーター料が一台5000円、バスなら7000円だった(大卒の初任給が8000円の時代)。当時は早稲田大学だけで、1回の動員に20台、30台の都電やバスを連ねたという。さらに、1・16羽田闘争による大量逮捕による、救援闘争も必要だった。島成郎が語るように、田中清玄の「資金援助」なるものも、闘争資金のほんのごく一部であり、そのなかのエピソードにすぎなかっただろう。

 田中清玄については、いろいろな意見があるだろう。安保全学連とのかかわりは、前掲の高杉氏の資料が詳しい。また、自伝がおもしろい。新自由主義の教祖であるハイエクから、京都学派の今西錦司、山口組三代目の田岡一雄まで多彩な人脈を誇った、破天荒な行動の人であり痛快児だった。「左翼の再生」という筆者に与えられたテーマには、不適当な人物のように考える人もあるだろうが、しかし政治とは泥をかぶり、手を汚して純粋なものを守り抜くことであろう。今年も樺美智子の亡くなった6月15日がやってくる。

【参考文献】
『日本共産党の研究』 立花隆(講談社文庫)
『田中清玄自伝』 田中清玄(文藝春秋)
『60年安保とブント』 島成郎記念文集刊行会・編(情況出版)

【参考サイト】
田中清玄と安保全学連(高杉公望氏による)
http://bundpro2.fc2web.com/Sehen/sub6.htm