記念日協会によると、きょうは「裏切りの日」だそうだ。
 1582年(天正10年)のこの日、織田信長が本能寺の変で自害している。

 といっても、新暦では、本能寺は7月1日にあたるようだ。梅雨の季節である。そうでなければ、秀吉の備中高松城の水攻めも、梅雨で河川が増水する時季をとらえたものであることがわからなくなる。

 ところで信長の死んだ1582年に、西洋ではグレゴリオ暦が採用されている。それまでのユリウス暦では、400年につき春分の日が3日早くなることが判明したためだ。そこで、400年に3回、下2桁が00の年のうち、上2桁が4で割れない年は閏年を省略することにした。これが今日まで続く「グレゴリオ暦」である。これにより、3000年に1日の誤差まで改善された。

 グレゴリウス13世は ユリウス暦1582年10月5日をグレゴリオ暦1582年10月15日と定めた。このため西洋の暦には、1582年の10月6日〜10月14日はない。

 「悲しみは、何の粉飾もない疲労か病気にすぎない。裏切りよりも胃腸病のほうがずっと耐えやすい。それに、本当の友がいないなどと言うより、血球が足りないと言うほうがずっといいではないか」(アラン『幸福論』)


 きょうの墓碑銘−−1951年6月2日、アラン歿(1868−1951)。

 アランの思想は美しい。しかし、ドレフュス事件ではドレフュス派・再審派の立場に立って論陣を張っている。吉本隆明が、こんなことを書いている。

 若者の時代、自分はアランの『幸福論』を食わず嫌いで敬遠してやりすごしてしまった。しかしそれは、幸福とか不幸なんかが、自分に何のかかわりがあろうかという、青春の傲慢にすぎなかったのだ。後にアランの選集をきちんと読むことがあった。アランは日本の仏文学者がいうような、芸術に深く執着した哲学者というだけではない。フランス左翼が解体に差し掛かったとき、非スターリン主義系グループの小集団を主宰したラディカルな思想家という面も持っているのだと。

 あいにく、アランのグループが、どんなグループだったかのまでは、確認できなかった。しかしアランを師に仰いだ人に、シモーヌ・ヴェイユがいる。

 今年(2005年)、シモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』(1934年)の翻訳が岩波文庫から出た。左翼やマルクス主義を批判する人たちは……私もその一人と目されるのかもしれないのだが……、ぜひともこういう良著を手にとってほしいものだと思う。本書でヴェイユは、スターリニズムを糾弾するのみならず、トロツキーの世界同時革命にも根拠がなく、プロレタリア革命待望論が十九世紀に固有の神話的形態にすぎないと否定している。

 ヴェイユはトロツキーにも会っている。1931年にパリ高等師範学校を卒業すると同時に、ヴェイユは労働組合運動に身を投じた。トロツキーの息子のレオン・セドフはヴェイユの両親のアパルトマンに投宿した「友人」であり、33年の年の瀬にトロツキー自身もふたりの武装した護衛を伴ってアパルトマンで数日をすごしている。ヴェイユはこの機会を逃さず、ロシアの国家体制のゆがみを招いたのは、たんにスターリン独裁の誤謬だけでなく、レーニン、さらにマルクスにも求められるべきだという意見を直接ぶつけた。もちろんトロツキーは激怒した。それでもヴェイユ家を退去するときにこういいのこした。

 「第四インターナショナルが創設されたのはお宅でのことだといってもいいですよ」

 さて、師のアラン本人の著作にあたってみたが、いま手元にあるのは『幸福論』や『定義集』などばかりで、直接、マルクス主義に言及した文章は見つからなかった。つい読みふけってしまい、また暦の更新も、ギリギリになってしまった。次のことばを引用しておきたい。

 「考えるとは、『否』(ノン)と言うことだ。うんとうなずくしるしは、眠っている人間のすることだということに注意したまえ。反対に、目ざめている者は首を横にふって、『否』と言う。何にたいして、『否』を言うのか。世界にたいし、暴君にたいし、説教家にたいしてか。それは外観でしかない。それらすべての場合に、思考が『否』と言うのは、自分自身にたいしてである。思考はおめでたい同意をうちやぶる。」

 「暴君が私の主人になるのは、私が検討しないで尊敬するからなのだ。真の説教にしても、この夢うつつの状態で受けいれるならば、誤ったものになる。人間が奴隷になるのは、思い込むからである。反省するとは、自分の思いこんでいるものを否定することである」(『宗教について』)

 このことばは、もちろん、私自身の共産党や民青に対する態度にも、当てはまることである。