1848年6月1日、「新ライン新聞」創刊。
マルクスを編集長、エンゲルスほか5名を編集委員として、日刊紙『新ライン新聞−民主主義の機関紙』が、ライン州のケルンで創刊される。
『共産党宣言』が出版されたのは、二月革命のわずか数日前のことだ。1月にイタリアのミラノで蜂起、2月24日にパリで革命が燃え上がり、3月3日にはライン州の首都ケルンに、そして3月13日にウィーンに波及した。
この頃、マルクスはベルギーのブリュッセルにいた。しかし、ベルギー政府はマルクスを逮捕して、国外追放。マルクスは一時パリに赴く。すでにパリで革命闘争に加わっていたバクニーンは、武装団を率いてドイツ進入を計画していた。しかし路線をめぐって、マルクスとバクニーンは決裂。マルクスはドイツに潜入して、「ケルン民主主義協会」を設立、機関紙として「新ライン新聞」を創刊する。
「新ライン新聞」ということは、それ以前に「ライン新聞」もあったのだ。1842年1月1日に青年ヘーゲル派の一団が創刊した日刊紙がそれであり、マルクスも途中から編集長をつとめている。生涯の盟友エンゲルスと出会ったのも、1842年11月、ケルンの「ライン新聞」の事務所でのことだった。
しかしこの新聞はケルン民主主義協会の機関紙である。まだ、そこではプロレタリアの組織というものがなかったからだ。直ちに共産党を組織するわけにもいかない。そこで、ケルンの貧民や労働者の間に人気のあった医師ゴットシャルクと退役士官ウィリッヒによって組織された「ケルン労働者協会」のひさしを借りることにする。のちに「トロツキスト」の戦術として有名(?)になる加入戦術である。何といっても、当時のケルンの人口は8万人、そしてケルン労働者協会の会員数は7000人であり、利用しない手はない。
もちろん、マルクスとエンゲルスは策を弄して人を欺くことをしなかった、パリのプロレタリアートの6月敗北の報道に接したとき、「新ライン新聞」は次のような論説を掲げた。おそらくマルクスの手になるものだろう。
「パリ労働者は敵の優れた力によって粉砕された−−彼らは全滅された。彼らは撃破された。だが彼らの敵もまた敗北した。野蛮な力の一時的勝利は、二月革命のあらゆる魅惑と幻影の破壊とをもって、共和党の完全なる解体をもって、フランス国民の二つの部分−−雇い主の国民と労働者の国民との−−への分裂をもって、賄われたものである。三色の共和国は今後単色−−敗北者の色、血の色−−の共和国となるである。それは赤色共和国となった」(1848年6月28日)
「新ライン新聞」は、名実ともにケルン労働者のための機関紙となった。しかし同時に、株主の大半を失い、民主的なブルジョアジーからの財政支援を失うことになった。
さらに、この労働者階級の解放をめざした非妥協的な編集方針は、当然ながら、プロイセン当局のマークするところとなった。9月の戒厳令では発行禁止。再刊にこぎつけるが、編集部員に対する裁判所と当局の追及はさらに激しさを増して、「新ライン新聞」の発行停止と、マルクスを国外追放へと追いやることになった。
1849年5月19日付の最終号は赤刷りで発行され、マルクスの「戦時法規による『新ライン新聞』の禁止」を掲載している(画像)。ロンドンへ亡命後、マルクスは「新ライン新聞」を雑誌に変更した。
生前刊行されたマルクスの著作はそう多くない。『共産党宣言』は共産主義者同盟の綱領であり、個人名は出ていない。『経済学=哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』は出版されていない。
マルクスは経済学者や哲学者というイメージが強いけれど、生前は、硬派の政治ジャーナリストと受け止められていたといったほうが適切だろう。ポオやドストエフスキーがそうだったように、当時のジャーナリストは難解な文章を書く人たちだった。
マルクスの入門書『賃労働と資本』は、『新ライン新聞』1849年4月5日から8日(264号〜267号)と、11日(269号)に連載されたもの。これは不破議長の『古典学習のすすめ』でも取りあげられている。
また、フランス三部作*の第1作『フランスにおける階級闘争』も、イギリス亡命後、雑誌に変更された『新ライン新聞』に発表されたものである。
フランス三部作は、マルクスの国家観・革命観、あるいは階級観や民主主義観を知るための最も適切な入門書である。そして、これらの論考は、同時代と切り結んだ「ジャーナリスト・マルクス」が生み出した著作だったということも覚えておこう。
【参考文献】
『フランスにおける階級闘争』K.マルクス (国民文庫)
『賃労働と資本 賃金、価格および利潤』 K.マルクス/服部文男訳(新日本文庫)
『マルクス・エンゲルス傳』 リヤザノフ/青野季吉+石澤新二訳(南宋書院)
『古典学習のすすめ』 不破哲三(新日本出版社)
『マルクスを再読する』 的場昭弘(五月書房)
*注
マルクスのフランス三部作とは、次の通り
『フランスにおける階級闘争』(1850年)
『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1852年)
『フランスにおける内乱』(1871年)
『共産党宣言』が出版されたのは、二月革命のわずか数日前のことだ。1月にイタリアのミラノで蜂起、2月24日にパリで革命が燃え上がり、3月3日にはライン州の首都ケルンに、そして3月13日にウィーンに波及した。
この頃、マルクスはベルギーのブリュッセルにいた。しかし、ベルギー政府はマルクスを逮捕して、国外追放。マルクスは一時パリに赴く。すでにパリで革命闘争に加わっていたバクニーンは、武装団を率いてドイツ進入を計画していた。しかし路線をめぐって、マルクスとバクニーンは決裂。マルクスはドイツに潜入して、「ケルン民主主義協会」を設立、機関紙として「新ライン新聞」を創刊する。
「新ライン新聞」ということは、それ以前に「ライン新聞」もあったのだ。1842年1月1日に青年ヘーゲル派の一団が創刊した日刊紙がそれであり、マルクスも途中から編集長をつとめている。生涯の盟友エンゲルスと出会ったのも、1842年11月、ケルンの「ライン新聞」の事務所でのことだった。
しかしこの新聞はケルン民主主義協会の機関紙である。まだ、そこではプロレタリアの組織というものがなかったからだ。直ちに共産党を組織するわけにもいかない。そこで、ケルンの貧民や労働者の間に人気のあった医師ゴットシャルクと退役士官ウィリッヒによって組織された「ケルン労働者協会」のひさしを借りることにする。のちに「トロツキスト」の戦術として有名(?)になる加入戦術である。何といっても、当時のケルンの人口は8万人、そしてケルン労働者協会の会員数は7000人であり、利用しない手はない。
もちろん、マルクスとエンゲルスは策を弄して人を欺くことをしなかった、パリのプロレタリアートの6月敗北の報道に接したとき、「新ライン新聞」は次のような論説を掲げた。おそらくマルクスの手になるものだろう。
「パリ労働者は敵の優れた力によって粉砕された−−彼らは全滅された。彼らは撃破された。だが彼らの敵もまた敗北した。野蛮な力の一時的勝利は、二月革命のあらゆる魅惑と幻影の破壊とをもって、共和党の完全なる解体をもって、フランス国民の二つの部分−−雇い主の国民と労働者の国民との−−への分裂をもって、賄われたものである。三色の共和国は今後単色−−敗北者の色、血の色−−の共和国となるである。それは赤色共和国となった」(1848年6月28日)
「新ライン新聞」は、名実ともにケルン労働者のための機関紙となった。しかし同時に、株主の大半を失い、民主的なブルジョアジーからの財政支援を失うことになった。
さらに、この労働者階級の解放をめざした非妥協的な編集方針は、当然ながら、プロイセン当局のマークするところとなった。9月の戒厳令では発行禁止。再刊にこぎつけるが、編集部員に対する裁判所と当局の追及はさらに激しさを増して、「新ライン新聞」の発行停止と、マルクスを国外追放へと追いやることになった。
1849年5月19日付の最終号は赤刷りで発行され、マルクスの「戦時法規による『新ライン新聞』の禁止」を掲載している(画像)。ロンドンへ亡命後、マルクスは「新ライン新聞」を雑誌に変更した。
生前刊行されたマルクスの著作はそう多くない。『共産党宣言』は共産主義者同盟の綱領であり、個人名は出ていない。『経済学=哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』は出版されていない。
マルクスは経済学者や哲学者というイメージが強いけれど、生前は、硬派の政治ジャーナリストと受け止められていたといったほうが適切だろう。ポオやドストエフスキーがそうだったように、当時のジャーナリストは難解な文章を書く人たちだった。
マルクスの入門書『賃労働と資本』は、『新ライン新聞』1849年4月5日から8日(264号〜267号)と、11日(269号)に連載されたもの。これは不破議長の『古典学習のすすめ』でも取りあげられている。
また、フランス三部作*の第1作『フランスにおける階級闘争』も、イギリス亡命後、雑誌に変更された『新ライン新聞』に発表されたものである。
フランス三部作は、マルクスの国家観・革命観、あるいは階級観や民主主義観を知るための最も適切な入門書である。そして、これらの論考は、同時代と切り結んだ「ジャーナリスト・マルクス」が生み出した著作だったということも覚えておこう。
【参考文献】
『フランスにおける階級闘争』K.マルクス (国民文庫)
『賃労働と資本 賃金、価格および利潤』 K.マルクス/服部文男訳(新日本文庫)
『マルクス・エンゲルス傳』 リヤザノフ/青野季吉+石澤新二訳(南宋書院)
『古典学習のすすめ』 不破哲三(新日本出版社)
『マルクスを再読する』 的場昭弘(五月書房)
*注
マルクスのフランス三部作とは、次の通り
『フランスにおける階級闘争』(1850年)
『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1852年)
『フランスにおける内乱』(1871年)