1972年5月30日、日本赤軍によるテルアビブのリッダ空港襲撃事件。

 「 遺書(父母への手紙)    奥平剛士
 ご無沙汰しております。今ローマから書いています。これが最後の手紙になるでしょう。国を出る時から生きて帰ることはないときめていましたが、不思議に今まで生きのびて、多くの人にあい、多くの事を知り、そして、最初の考え通りの路を行こうとしていること、何度考えても、ありがたい事だと感じます。思う通り、わがままいっぱいにさせていただきましたこと、お礼の言いようもありません。ついに孝養のこの字もさせていただくひまもありませんでしたが、もしも任務が許すならば、いつも第一にそれをしたいと思い続けていた事は、わかって下さい。我々兵士にとっては死はごく当然の日常事ですが、ただお二人が嘆かれるだろうこと、それだけが今僕の心を悲しませます。ベトナムで今死んでいく数千の若い兵士、こちらで、又、世界の至る所で、革命のために死のうとしている若い兵士たち、僕らもその一人だし、あなたがたも彼らのために泣いている何千何万の父や母の一人であること、こうした我々の血と涙だけが何か価値のある物を、作り出すであろう事をいつもおぼえていて下さい。
 ローマの空は明るく、風は甘いです。町は光にあふれています。少年時よみふけった、プリューターク*の思い出が町の至る所で、僕を熱くさせます。仕事がすみしだいお二人のもとに帰ります。
 ではお元気で。さようなら

                                           剛士

 お守りはちゃんと持って行きます。写真**といっしょに。(1972年5月29日)」

 今日はリッダ闘争について、何について書こうか、いろいろ迷った。しかしすでに事情通の解説がある。結局、私にできるのは、リッダ闘争戦士の奥平剛士氏の遺書を伝えることではないかと思った。以下は読んでも読まなくてもいい。

 同じく戦死した安田安之氏は、遺書を残さなかった。そればかりでない。わざわざ指紋を残さないように指を粉々にする姿勢で自爆した、……もちろん、遺体には首から上も残っていなかった。これは奥平氏も同じである。

 9・11の自爆テロ戦術にも、このリッダ闘争の影響が指摘されている。なぜ、日本赤軍の若者たちは、このような闘争戦術に至ったのだろうか?

 5月8日、パレスチナ・ゲリラはサベナ航空機をハイジャックして、テルアビブのリッダ空港に強制着陸、同志の釈放をイスラエルに要求した。しかしイスラエル側は強行手段に訴えて、ゲリラを射殺した。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)はこの事件に対する報復を計画する。しかしアラブ人では空港のチェックを突破することができない。そこで白羽の矢が立って協力を要請されたのが、日本赤軍だった。

 しかし、なぜ日本赤軍の若者たちは、このような任務を引き受けるに至ったのだろうか? もちろん、イスラエル軍との銃撃戦の結果だったとはいえ、民間人にも死傷者を出したことは、擁護することはできない。

 死者が帰らない以上、ほんとうのことはわからない。しかし日本赤軍のメンバーたちが、日本に残った同志たちが起こした連合赤軍事件を知っていたことだけは触れておきたい。2月19日に始まった連合赤軍のあさま山荘銃撃事件も知っていたし、その後に判明した同志殺し事件も知っていた。

 ベイルートの地で連合赤軍事件を知った重信房子は、「私はいま、赤軍派の一兵士として、殺害の執行人と、被殺害者の同志たちの、革命に対する責任をも引き受けねばならないと思います」(1972年3月25日)というメッセージを寄せている。革命を希求するもっとも抑圧された人たちが、つなぐべき手を思わず引っ込めたくなるような殺戮を起こしたことに、自分たちはいったいどう償い、どう責任をとるのか? 同志を殺したことについては、たとえ数十人、数百人の敵を殺したとしても、けして償えるものではない。この思いは、日本赤軍の戦士たちに共通していた思いだったはずだ。

 リッダ闘争生き残りの岡本公三氏は、日本では「テロリスト」の扱いだが、アラブでは「英雄」であることなど、ほかにも、いろいろ書きたいことがあった。しかし、考えがうまくまとまらない。連合赤軍事件を知った重信氏が、無念の思いとともに引用している中国革命に関する文章を引用して、終わりにしたい。

 「隊伍を整えなさい。隊伍とは仲間であります。仲間でない隊伍がうまくゆくはずがないではありませんか」


 * 『プルターク英雄伝』のこと
 ** 早世した長兄の写真のこと