1789年5月29日、クナシリ(国後)蜂起。

 1789年、まずクナシリ島で蜂起ののろしがあがった。マメキリ、ホニシアイヌ、イヌクマ、サケチレ、セツハヤフなどをリーダーにして、全島のアイヌが運上屋を襲撃したのである。そして松前藩の役人竹田勘平、支配人左兵衛、番人等に十数名をことごとく打ち殺して、対岸のメナシ(目領)へとなだれこんだ。そしてメナシのアイヌにも蜂起が拡大する。
 この当時には、シャクシャイン時代まではあったオムシャ(物々交換)はすでになく、アイヌは場所請負人に雇われるという形をとっていた。しかしその実態は奴隷に近いものだった。

 まさに奴隷漁場だった。漁場には番屋が建てられ、出稼人の監視のもとに過酷な労働を強制された。労働の内容は、刺網や曳網で魚をとるほか、ニシンの〆粕の製造である。当時、請負場所におけるアイヌの報酬は、一般に春から秋まで働いて次の相場だった。

  酋長 米または麹20俵(1俵は8升入) たばこ 20把
  男夷 同 7〜8俵 たばこ 20把
  女夷 同 5俵  たばこ 10把

 ところが、これがクナシリ島においては、

  酋長 米または麹3俵
  男夷 同 1〜2俵
  女夷 たばこ 1〜3把 マキリ(小刀)1挺

 であり、クナシリ島の対岸である本島のメナシの請負場所にいたっては、

  酋長 米1俵 たばこ1把
  ウタリ たばこ半把 マキリ1挺

 いったい、年に米3俵でどうやって家族を養っていけるだろう。女にいたっては食べ物をもらうどころか、たばことマキリだけ、クナシリ島ではこの報酬すらもえらないことが多かった。

 シャクシャインの戦い以後、多くの部族が制圧されたとはいえ、この地方の部族は、「惣じて東蝦夷は剛強にしてややもすれば松前の令を蔑にせり」と倭人側の資料にも書かれたように、なお松前藩へ対抗する勢力を持っていた。事情が一変するのは、1774年に飛騨屋長兵衛なる者が、厚岸、霧多布、クナシリの三場所の請負人になってからである。

 飛騨屋長兵衛は、飛騨の国出身の材木商で、近世におけるアイヌモシリ侵略の張本人として歴史に名の残る人物である。飛騨屋は木目の美しい蝦夷松で巨利を貪ると同時に、財政窮乏の松前藩に融資を重ねていた。そして、この貸付金を取り立てるかわりに、漁場の権益にも進出した。飛騨屋は大坂の近江商人ともつながりが深かった。大坂名物の昆布は、この時代に近江商人などが蝦夷地の昆布を持ち込んで加工して売り出したのが始まりである。

 クナシリ島の酋長ツキノエは、飛騨屋の船を打ち払い、場所を開くことを阻止する。倭人を入れたらどうなるか知っていたからだ。飛騨屋の要請を受けて、松前藩のとった行動は、ツキノエを本島から締め出し、交易を一切禁じることだった。クナシリのアイヌの生活は自然の資源にとぼしいため、本島との交易によって成り立っていた。本島との交易を完全に遮断されたツキノエは、エトロフ島にやってきたロシア人との交易に活路を見出そうとする。

 清国の勢力拡大によって南下を阻まれたロシアは、ヨーロッパ市場で要求されている毛皮の独占をはかるために交易拠点を求めていた。ロシア政府の前に浮かびあがっていたのが、クナシリ島の酋長ツキノエだった。ロシア政府は、ツキノエを案内人に、松前藩との通商の交渉にあたった。ロシア人の通辞が、流暢な日本語をつかったことは、松前藩の倭人をおどろかせた。「異国人共は、日本辞よほど巧者に聞き訳候……赤狄ども片仮名にて手紙位の儀は、通弁出来候由に御座候」と当時の記録にもある。当時、ロシアのイルクーツクには南部領の漂着民勝左衛門、利八郎を教師とする日本語学校があったほどだ。

 しかし、松前藩は鎖国の国法をたてに、この交渉は決裂する。松前藩からはしめだされ、ロシアとの交易の可能性も断たれて糧道を断たれたことが、クナシリのアイヌが飛騨屋の請負場所を受け入れざるをえなくなった理由である。

 実際に請負場所におもむき、アイヌを使役したのは、飛騨屋の雇人たちだった。彼らの多くは、いわば本国におけるアウトローである。アイヌに対する横暴は日本側から見ても目に余るものがあった。

 「多くは亡命(かけおち)又は無頼の凶漢、親族に棄逐されて遠く遁れ来たれる輩にして、夷人を指揮するも又直らず」(『東海参譚』)

 「通辞などと云者は、松前の役人の様にいひなすものなれば(松前の役人でもないのにそのようにいって……注)、蝦夷人も敬い重んずるを、勝にのりていろいろの難題を言ひかけ、人中にても大地に引伏打擲(ちょうちゃく)し踏にじりなどする躰、見るに忍びず」(『東遊記』)

 倭人の犯した非道の数々は、いちいちあげればきりがない。過酷な労働、欺かれた報酬、自分の妻は番人のなぐさみものとされ、その上、労働に耐えられなくなれば殺される……。

 かつては剛勇で知られたが、この頃はおとなしくなっていた老ツキノエ酋長の留守にあわせて、マメキリをリーダーにクナシリのアイヌは蜂起した。帰島したツキノエは松前軍に降伏する。しかし、松前藩の報復は苛烈だった。蜂起に参加したアイヌは全員虐殺された。


 アイヌから見た日本人はふつう「和人」と表記する。しかしこの稿では、あえて「倭人」としたのには理由がある。クナシリの蜂起では、日ごろアイヌに対して親切だった者、極悪非道な雇人が多かった南部の出身でないものは、命を助けられ、手厚い介抱を受けている。このエピソードに、思い出したのは英国人の女性旅行家のサベラ・バードによる、アイヌ人についての記述である。

 「私はその顔形といい、表情といい、これほど美しい顔を見たことがないように思う。高貴で悲しげな、うっとりと夢見るような、柔和で知的な顔つきをしている。未開人の顔つきというよりも、むしろサー・ノエル・パトン(英国の歴史画家)の描くキリスト像の顔に似ている。彼らの態度はきわめて上品で、アイヌ語も日本語も話す。その低い音楽的な調子はアイヌ人の話し方の特徴である。これらのアイヌ人は決して着物を脱がないで、たいへん暑いときには片肌を脱いだり、双肌を脱いだりするだけである。……一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。このような日本人を見慣れた後でアイヌ人を見ると、非常に奇異な印象を受ける」(『日本奥地紀行』)

 英国人女性は、大陸の中国文化を受け入れてすでに千年以上たった倭人の堕落した姿と、アイヌの「未開」がもつ高貴さの対比をみごとに描き出した。

 このクナシリ蜂起をきっかけに、蝦夷地の拓殖とロシアに対する北方の国防が議論されるようになった。幕府は蝦夷地を松前藩領から召し上げ、これを直轄地とする。いわゆる「北方領土」の問題でも、クナシリがアイヌの自治領であり、そしてロシアとも交易を行っていた歴史を忘れてはならない。

 昨日(5月28日)の「読者投稿・用語解説」の「在日」は、ぜひご一読をおすすめしたい文章である。在日の人々、あるいは左翼や市民運動に、「日本が嫌いなら日本から出てゆけ」という人々は、大陸から見て日の出る方向という、親中的な国辱的な国号の廃止運動をまず起こすべきであろう。これは革新や革命を標榜しながら、「日本」という国号を無批判に組織名に冠している政党・党派にもあてはまることである。

 この日本国と王朝の歴史を対象化して、乗り越えるところに、現代における「国家と革命」(レーニン)の展望もある。そしてこの総括を果たしきることなしに、「日本」という国名に結びついた「日の丸」、「天皇」と結びついた「君が代」を国旗・国歌とした事態を、根本的に覆すこともできはしないのである。

【参考文献】
『アイヌ民族抵抗史』 新谷行(三一新書)
『日本奥地紀行』 サベラ・バード(東洋文庫)
『「日本」とは何か』 網野喜彦(平凡社)

【参考サイト】
クナシリ・メナシのアイヌ蜂起
http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm06_rks04.html

「ノッカマップ(根室) 〜和人と“最後の武力衝突” アイヌの民散った岬」(YOMIURI ONLINE)
http://hokkaido.yomiuri.co.jp/tanken/tanken_t011006.htm