1871年5月21日、ヴェルサイユ軍がサン・クルー門からパリ市内に突入する。血の一週間が始まる。パリ・コミューンの最後。

 「労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、−−新社会を生み出すことに熱中するあまり、食人鬼が門前にいることさえ忘れて−−その歴史的創意の熱情に輝いていた!」(カール・マルクス『フランスにおける内乱』)
 5月21日日曜日、午後3時ごろ、ヴェルサイユ軍は、その全砲火をサン・クルー市門に集中して、原型をとどめないまでにこれを破壊しさった。デュカテルという名のスパイが現われ、白いハンカチを振って、塹壕にいた兵士たちに向って叫んだ。「やってこい、誰もいないぞ!」。こうして、ヴェルサイユ軍は、ほとんど抵抗にあうことなく、市内に闖入したのである。

 パリ市民の大多数は、いよいよ最後のときが近づきつつあることを何も知らなかった。市の中央チュイルリー公園では、コンミューンの犠牲者の残された妻と孤児のためのチャリティコンサートが開かれていた。コンミューン参謀部のひとりが壇上に現れて挨拶した。

 「みなさん、昨日ティエールはパリ侵入を約束しました。しかし彼は侵入しなかったし、またしないでしょう。来週の日曜日に開かれる大音楽会にはどうぞ大勢で来てください」

 ヴェルサイユ軍侵入の報告があったのは、午後7時のコンミューン総会……これが最後の総会になった……の席上であった。救国委員会のビリオレイの報告に衝撃を受けた全議場には、一瞬沈黙が支配したが、次いで矢継ぎ早の質問がビリオレイに集中した。ビリオレイは自信をもって答えた。

 「すでに援軍が送られました。救国委員会は一切の場合に備えています」

 パリの城塞の堅固なことに過信を抱いていた議員たちは、この回答に満足して、緊急事態に対処すべき防禦計画を立てようとする者はなかった。5万のヴェルサイユ軍は、ほとんどコミューンの抵抗を受けることなく、次々に新地点を占領していった。こうして5月22日の明け方には、市内の5分の1近くを占領下においていた。

 パリ防衛の責任者のひとり、ドレクリューズは、献身的な活動家だった。5月22日の朝、ドレクリューズの名前で全市に貼り出された布告は、次のようなものである。

 「軍国主義と訣別せよ! 制服と金モールをつけた参謀将校には用はない! 素手の戦士、人民に席を与えよ! 革命戦争の鐘は鳴った。人民は鹿爪らしい機動戦については何も知らないが、一たび銃と石とをもて舗道の上に立てば、いかなる君主主義派の戦略家にたいしても恐れるところはないのだ……諸君の嵐のような抵抗の前に諸君を屈服させようとしてやってきた敵は、かれらが二ヵ月間に犯した数々の犯罪にたいする恥ずかしさのために、その力を失うであろう。コンミュンは諸君を頼りにしている。そして諸君はコンミュンを信頼せよ!」

 このドレクリューズの布告は、一切の軍国主義に反対するアピールとして、記憶されてよいものである。コミューンの市民の英雄的な戦いは、ドレクリューズが軍事のアマチュアだったこと、ロマンチストであったことと、いかなる意味でも矛盾しない。この布告を見た国民衛兵たちは急いで自分たちの町内に帰り、至るところにバリケードを築いた。

 コミューンの市民は男も女も、子どもも老人も、最後まで英雄的に戦い抜いた。戦闘によるコミューンの戦死者は女性・子供も含めて3万人、その後3万8千人が逮捕され370名に死刑宣告、410名に強制労働、7500人が禁錮または流刑に処された。

 マルクスはつぎのように書いている。


 「1848年6月のブルジョアの残虐行為さえ、1871年の言いようのない凶行の前では色を失う。……ティエールとその血に飢えた猟犬どものふるまいに匹敵するものを見いだそうと思えば、われわれは、ローマのスラや二回の三頭政治の時代までさかのぼらなければならない。同じ冷血な大量殺戮、年齢や男女の区別をつけずに虐殺する同じ見さかいのなさ、同じ捕虜拷問の方式、同じ公敵宣言−−、身を隠した指導者たちを一人でものがすまいとする同じ野蛮な狩りたて、政敵や個人的な敵をおとしいれる同じ密告、争いにまったく無関係なものまでも屠殺してかえりみない同じ無頓着さ。ただ一つ違っているのは公敵と宣言された者を一束にして片づけるミトライユーズ機関砲をもたなかったこと、そして彼らが『法律』を手にしておらず、また「文明」という叫びをその唇にのぼせていなかったことだけである」(『フランスにおける内乱』)

 コミューンの、無準備・無綱領・無計画・無組織性については、すでに多くのことが語られている。「コミューンは、国家の、すなわち支配階級としての武装せるプロレタリアートの革命的権力を、もっと大胆に行使するべきであった」とマルクス・エンゲルスは総括を行い、革命期の権力の問題は、レーニンの『国家と革命』の重要なテーマになっていくだろう。すなわち、階級闘争を承認するだけでは十分ではなく、プロレタリア独裁を承認するものだけがマルクス主義者なのだ。

 しかし私たちはすでに、天才レーニンが実現した革命ロシアが、ティエールの蛮行でさえ色を失う、恐怖社会を実現したことを知っている。革命と戦争が出会うとき、革命は敗北して血の海に沈められるか、民衆に敵対する反革命暴力に転化してきた。パリ・コミューン以降の歴史が証明されている通りである。

 この革命と暴力の逆説をどのようにとらえたらいいのだろうか? 一切の戦争と暴力を否定する、たとえばシモーヌ・ヴェイユのような人物の絶対非戦主義しか残されていないのだろうか? 

 しかし、現実に暴力もテロリズムも存在している。私たちは黙って殺されるようなことはないだろう。ここでは、純粋に軍事問題に限定して、パリ・コミューンの敗北の教訓を検討してみたい。

 ティエールのヴェルサイユへの退却が、軍隊を再編し増強して、パリの奪回を企てる戦術的前奏曲だったことに着目したコミューン委員はいなかった。受身の態度が、つねに叛乱の失敗にみちびいてきた。もちろん、叛乱の原則に忠実に、すみやかに攻勢に出て、退却中のヴェルサイユ軍を粉砕して、進んでヴェルサイユに進撃して国民議会を解散して、あらたに全国的選挙を組織せよと提言したデュヴァルのような人物もいた。しかし、委員会は選挙の問題に没頭して、この意見は採用されることがなかった。

 この攻撃が時を移さずおこなわれていたら、おそらく大成功をおさめたにちがいない。コミューン最後の市街戦においても、市内各地に点在したバリケード相互間の連絡や協力体制を築かれていたら、ヴェルサイユ軍を撃退できたかもしれない。戦争の基本原則は、勢力の分散を防ぎ、力を重点目標に集中して、全防禦に計画性を与えることである。そして、コミューンにはモンマルトルやパンテオンの丘の上に大砲塁を確保していたはずだ。しかし市街戦の混戦のなかで、ついに大砲も火を吹くことがなかったのである。

 しかしコミューンの無準備、無計画、無組織をあげつらうのは正しくない。結局、死児の齢を数えるような愚を重ねるだけだろう。ティエール反革命が、いかにして「勝利」したのか、敵の戦略と戦術を学ぶことにしよう。このことに関しては、マルクスやレーニンの著作をいくら読んでも出てこないからである。

 「ティエール、この恐るべきこびと(ノーム)は、半世紀間、フランスのブルジョアジーを魅惑してきた。この男こそ、ブルジョアジーの階級的腐敗を、もっとも完成した形であらわす知識人だ。ティエールの嘘つき能力は、政治家になる以前、すでに歴史家だったころから証明ずみである。」(『フランスにおける内乱』)*

 「コミューンの死刑執行人」ティエールもフランス大革命の時代の生み出したモンスター、すなわち鬼っ子だという視点が必要である。ルイ=アドルフ・ティエールは、フランス大革命史の研究者であり、同時に革命対抗戦術の大家でもあった。都市叛乱、特に首都における叛乱に対抗する戦術において、ティエールの右に出るものはなかった。



 ティエールの最大のピンチは、逆にいえばコミューンの最大のチャンスは、モンマルトルでの大砲奪取に失敗したティエール軍と住民たちの交歓である。女性たちと国民防衛隊の一群が、すでに闘志を失っていた部隊になだれこんできたとき、指揮官のルコントは一斉射撃を命じた。しかしそれに応える兵士はいなかった。ルコントは命令を繰り返した。兵隊たちは小銃の銃口を空に向けて叫んだ。
 「共和国、万歳!」
 群集もこれに応えた。
 「兵隊さん、万歳!」

 この失敗に遭遇したティエールの判断は、実に迅速だった。自分たちがどのような政治的立場に立つにいたっかたを兵士たちが理解しないうちに、ヴェルサイユへの総退却を命令したのだった。兵士たちが完全に忠誠を失い、叛乱の側にひきこまれる前に行動を移すことが必要だったのである。そして、士気のおとろえた軍隊を再編し、革命の影響を受けていない増援部隊を加えて補強し、豊富に食糧をあたえ給料を払い、軍隊を危険な民衆の影響から完全に隔離しておくことに努めた。

 ティエールの反革命軍事論は、次の三つの原則から成り立っている。

 まず第一に、叛乱と断固として戦う決意をもつ政府が存在し、政府を支持する信頼できる軍隊がある限り、いかなる叛乱も鎮圧可能だというものである。最も肝要な必要条件は、シャルル十世やルイ・フィリップの考えたような、首都の確保ではなく、軍隊の確保なのである。軍隊さえもてば、首都の奪回はいつでも可能になるだろう。

 第二に、軍隊が信頼できなくなれば、すべては終わりである。革命派とあまりに長く接触したままに放置されている軍隊は、解体の危機にさらされているのである。そのような軍隊は、民衆との接触から切り離し、他日の戦闘の勝利をめざして再編成されなければならない。叛乱の鎮圧のためには、叛乱の中心から離れたところに部隊を集めることがキーポイントになるだろう。

 第三に、現実の戦争状態に突入すると、兵士というものは同志関係・味方関係の「わが方」意識により「根性」がすわるものであり、同時に何を目的としてたたかっているかについては、行動に入る以前ほどには、思い悩まなくなるという、戦場の心理学である。

 このことが、マルクスはもちろん、コミューンの委員たちも戦勝ムードのうちに軽視してしまった、ティエールのヴェルサイユ撤退の真の意味だった。

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」ということばは有名だが、「敵を知らず己を知れば一勝一敗す」ということばである。自分を冷静に客観的に認識することは、それほどむずかしいことである。このパリ・コンミューンの敗北の教訓が、何事かのお役に立てば幸いである。


【参考文献】
『フランスにおける内乱』 K.マルクス/村田一郎訳(国民文庫)
『パリ・コンミュン史』 淡徳三郎(法政大学出版局)
『軍隊と革命の技術』 K・コーリー/神川信彦+池田清訳(岩波書店)

【参考サイト】
The Civil War in France, by Karl Marx
http://www.marxists.org/archive/marx/works/1871/civil-war-france/index.htm

http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~c53851/france1ade.htm


(*)注
 国民文庫版の、現在なら「サベツ語」として自主規制モードに抵触しそうな「醜怪な一寸法師」の原語が気になり、英語版にあたってみた。以下英語版の原文である(国民文庫版の底本も英語版である)。

 Theirs, that monstrous gnome, has charmed the French bourgeoisie for almost half a century, because he is the most consummate intellectual expression of their own class corruption. Before he became a statesman, he had already proved his lying powers as an historian.

 問題の部分は、monstrous gnomeである。せいぜい「極悪な鬼っ子」くらいのニュアンスだろう。「醜怪」はMonsterの属性のひとつにすぎない。gnome(ノーム)が地下に住む妖精で、ダイヤや金塊などを守ると信じられた「地の精」「小鬼」であり、転じて「国際的金融業者」を指すこともあるようだ(研究社、新英和中辞典)。

 ティエールその人はフランス人なので、コクトーにひっかけて「おそるべきこびと」と訳してみた(この訳でも糾弾を受けてしまうかもしれないが)。ノームそのものは、子どもたちに人気のある妖精であり、ディズニーの「七人のこびと」にもそのおもかげがある。