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 白が黒になったとき、「あいかわらず基本的には同じだ」という人がいる。かと思えば、別の人は、色がちょっと暗くなっただけで、「すっかりかわってしまった」という。(ヴィトゲンシュタイン)
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 1927年5月17日、トロツキーはクルプスカヤに手紙を書く。
 「親愛なるN・K−−

 私は、自分の手書きであなたを悩ませないようタイプライターで手紙を書いています。
 私の手書きは年を経てもうまくなりません。
 あなたの手紙を読みました。それはG・E〔ジノヴィエフ〕個人に宛てたものでしたが、その内容はけっして個人的なものではないので、私がそれについて述べても差し支えないでしょう。
 何よりも私が驚いたのは「空騒ぎ」という言葉です。……」

 これは5月15日にクルプスカヤのジノヴィエフ宛の手紙に対する返信である。もはやクルプスカヤは、1926年の秋から、トロツキーとジノヴィエフの合同反対派と、行動をともにしていなかった。彼女が合同反対派からの離脱を決意するに至ったのは、5月9日のジノヴィエフの演説がきっかけである。トロツキーとジノヴィエフは、クルプスカヤに翻意をうながす、……しかしもはや引き返せないところまできていた。

 トロツキーを驚かせた、「空騒ぎ」というクルプスカヤのことばには、若干の解説が必要だろう。この当時、スターリン派とトロツキー派の対立が再び激化していた。1927年4月の、中国共産党の危機−−蒋介石の4・12反共クーデターがその引き金である。

 中国の共産主義者は、1923年の建党以来、コミンテルンの「統一戦線」方針のもとに、帝国主義勢力に対する民族革命を実現するために国民党に加入しており、また、国民党もオブザーバーの資格をもって、コミンテルン執行部に代表を置いていた。

 スターリン指導部にあっては、中国革命の任務とは、中国を統一、近代化して民族的独立……社会主義ではない……を獲得することだった。共産党の革命的進展よりは、未来の中国政府としての国民党に、ロシアの影響力を高めることが優先されたのだ。

 トロツキーら反対派にあっては、このコミンテルンの政策は、各国の共産党を「世界革命の前衛部隊」から、「一国社会主義」ソヴィエト・ロシアの「国境警備隊」におとしめる以外のなにものでもなかった。中国の共産主義者たちの間では、蒋介石との同盟に対する不満が深まり、四階級ブロックも瓦解しつつあった。特に沿岸部での労働者階級の成長は、重要な政治的要素になっていた。

 この新しい事態は、中国の1917年になりうるだろうか? スターリンとブハーリンは「ノー」と答え、トロツキーは「イエス」だった。

 共産主義の拡大ほど(いかにそれが穏健なものであれ)、蒋介石以下の中産階級指導者を恐怖させたものはなかった。蒋介石は、浙江財閥と結び、左派切り捨てを約束していた。 一方、上海では周恩来らの指導で中国初の議会制権力である 上海臨時特別市政府が樹立されていた。特別市政府は、国民革命の「英雄」蒋介石を歓迎するための準備を整えていた。ところが、上海に入城した蒋介石軍は4月12日、突如、その矛先を特別市政府へと向けたのである。そして、暗黒街を牛耳る青幇と結び、 上海総工会など左派系諸団体の拠点を急襲、5000人の労働者糾察隊を含む大勢の民衆を虐殺したのだった。

 この後、南京に国民政府を樹立した蒋介石は全国各省で「赤狩り」を指令、各地の軍閥もそれに乗じ、中国全土で白色テロの嵐が吹き荒れた。 ここに第1次国共合作は終焉を迎えた。

 トロツキーら反対派は、ただちに4・12反共クーデターをスターリン派に対する反撃の機会としてとらえた。中国革命の敗北は、日和見主義的方針の敗北であるばかりでなく、指導部の官僚的方策の敗北なのだ(トロツキー)。

 スターリン派は、この反対派の攻勢の前に、一時は劣勢に立ったかに見えた。しかしこの問題をごまかすための、都合のよい口実がすぐに見つかった。それが5月9日、ジノヴィエフが、厳密には党主催でない『プラウダ』の記念集会で、指導部の中国政策を批判したことである。

 スターリン派のジノヴィエフ攻撃カンパニアは、今日ではだれもが知る、使い古された、いつものあの手段であった。……同志ジノヴィエフの「組織解体的演説」は、「この重大な局面」で、「ソ連共産党中央委員会との諸決議を攻撃」する、党の団結に反する前代未聞の出来事である。それは分派を禁じる党規律を破壊する行為であり、議論の対象などではなく、「統制委員会」による検討課題なのだ。(『プラウダ』5月12日)。

 クルプスカヤを最終的に反対派離脱に踏み切らせた理由の一つが、このジノヴィエフの演説がラジオ放送されたことだった。ジノヴィエフは、自分の演説がラジオ放送されたとは知らなかったといっている。このことを確かめるすべはない。しかしクルプスカヤにとって許せなかったことは、この演説が「非党員の労働者や農民大衆」に知られたという事実そのものだった。

 5月15日のジノヴィエフ宛の書間で、彼女はこう書いている。

 「親愛なるグリコリー。あなたはご自分の演説の速記録を送ってきてくれました。
 私の意見では、あなたは大きな誤りを犯しました。
 あなたもご存知のように、演説はラジオで放送されていました。
 したがって、あなたの演説は党にではなく、全国に向けたものだということになります。非党員の労働者や農民大衆は、反対派が党とソヴィエトの基本路線に反対しているとみなすでしょう。このことは、あなたが批判の水準を越えてしまっていることをしています。(……)
 党の政策に影響を与えるために何よりも必要なのは、主流派と反対派とが対立しあう時期を終わらせることです。あなたもご存知のように、私は去年の秋からそうした見方をしてきました。いつまでも空騒ぎを続けることは、歴史にとって有害であるように思われます。(5月15日)

 5月17日の書簡で、トロツキーは、「空騒ぎ」と非難されたことについて、反駁をこころみる、……親愛なる同志クルプスカヤよ、どうしてあなたまで、スターリニストと同じことばで、私たちを非難するのですか? 中国の危機が「空騒ぎ」ですって? わが党はあろうことか、あの蒋介石に食糧、衣服、靴、賞賛を送り、彼に従うよう中国共産党員に指示していたのですよ? これでも、われわれの批判は「空騒ぎ」でしょうか?……

 もちろん、クルプスカヤとても、中国の危機を軽視していたわけではない。しかし、クルプスカヤに最終的に反対派離脱を決意させたのは、イギリスとの外交危機で準戦争体制にあったことだろう。

 同じころ、5月12日、イギリス警察当局は、ロンドン駐在のソヴィエト通商部代表を急襲して、諜報活動の証拠とされるものを発表した。この2週間後にイギリスの保守党政府は、ソヴィエトとの外交関係を断絶する。

 イギリスとしては、この危機をあまり重視していなかったが、スターリン派もトロツキー派も、戦争の危機が迫っていると性急に判断した点では同じだった。トロツキーは、戦争の脅威を強調し、国内外のスターリン指導部の裏切りの頭上を越えて、国際プロレタリアートにソヴィエトを支援するよう訴える必要があることを主張した。

 しかしトロツキーが「戦争の脅威」を主張すればするだけ、スターリン指導部の反対派活動の抑圧強化を合理化するのに役立っただけだった。クルプスカヤの態度は、その典型的なものである。クルプスカヤは5月19日に合同反対派との決別を表明する手紙を『プラウダ』編集部に送り、『プラウダ』は翌日にそれを掲載した。

 「ソヴィエト連邦は武力侵略の脅迫を受けており、このような条件の下においては、わが党はうって一丸とならねばならないのである」(クルプスカヤ)。

 五月の別れ……、ジノヴィエフはクルプスカヤにこう書いた。

 「すべての文書はそれ自身の運命を持っています。あなたの声明は――もしそれが本当になされれば――、あなたがそう望もう望まなかろうが、中国革命を滅ぼした連中を支えるものとなるでしょう。」(5月16日クルプスカヤ宛書簡)

 トロツキーは、クルプスカヤ宛の手紙をこう結んでいる。

 「たとえあなたがコシオールにならって「空騒ぎ」という言葉をそのまま繰り返しても、われわれは流れに抗して泳ぐでしょう。
 そして、われわれは、この困難な時期である現在ほど、ボリシェヴィズムの全伝統との結びつきを深くはっきりと感じたことはありません。現在、われわれが、そしてわれわれだけが党とコミンテルンの未来を準備しているのです。
 心からあなたの健康を願っています。
                            エリ・トロツキー
 1927年5月17日」

 故レーニンの妻クルプスカヤの離脱は、反対派にとって致命的な政治的打撃となり、反対にスターリンらの主流派にとっては大きな得点となった。この後の歴史については、すでに知られているとおりである。


【参考・引用サイト】
▽トロツキー・ライブラリー
http://www.trotsky-library.com/list.htm

【参考・引用文献】
『ロシア共産党党内闘争史』 R.ダニエルズ/国際社会主義運動研究会訳(現代思潮社)
『スターリン』 I.ドイッチャー/上原和夫訳(みすず書房)
『反哲学的断章』ヴィトゲンシュタイン/丘沢静也訳(青土社)