きょうは、オーウェン(1771−1858)の誕生日である。

 ロバート・オーウェンは、イギリス産業革命のなかに活躍した、先駆的な社会主義者である。高校の世界史の教科書では、こんな風に紹介されている。

 「1800年に紡績工場を経営して成功、労働者の生活改善に努力した。1825年にはアメリカでニューハーモニー村(理想的共同社会)を建設したが失敗した。工場法の制定や、労働組合・協同組合の育成にも努力した。」
                      (桐原書店『新世界史A』)

 オーウェンは、1771年、ウェールズのニュータウンという町に生まれた。ヘーゲルと、ベートーヴェンはこの前年、1870年の生まれで、ほぼ同年代だ。
 オーウェンは10才でマクガフォッグ商店の奉公人となり、1896年、25歳でマンチェスターとしてコールトン撚糸会社を設立。この時点で、若き経営者としての声望は高かった。1899年にアン・カロライン・デイルと結婚、彼女の父からスコットランドの綿業工場を買い取り、その支配人となる。これがオーウェンの名を歴史に刻むニュー・ラナーク工場である。
 オーウェンはいわば立志伝中の人物であり、その生涯の前半は、「綿業王」として人々の声望と尊敬を集めた人物だった。

 この時代は、18世紀なかばから紡績業を中心に始まった産業革命の波が、イギリス全土に広がりつつあった時期である。資本主義勃興期のイギリスは、「羊が人間を食う」といわれた。紡績業がさかんになったので、貴族が領内の耕地を囲って羊を飼い、農民が強制的に土地から駆逐されてしまったのだ。農地を失った貧しい農民や、工場の出現で職を失った職人たちの多くは、炭坑で働くか都会に出て工場労働者となった。しかし、新しい工場労働は、技術はさほど必要とされない。結果的に賃金の安い女性や子どもたちが、これらの労働を担うようになっていった。成人男性は失業状態となり、労働者街はしだいにスラム化して、犯罪も増加していった。

 産業革命のもたらした社会の矛盾や問題点を、オーウェンは無知と誤謬の上につくられた社会の諸制度に求めた。諸悪の根元は、労働者を取り巻いている労働環境の悪さにあるのだ。

 「人間性とは社会と神または自然とからつくられたもので、どんな人間も、かれ自身の性格をつくりえたとか、つくりうるとか言うことはできない。……したがって、環境さえ改善すれば、善人をつくることができる」

 オーウェンの唱えた理論は、「性格形成論」として知られている。では、どのように環境の改善はなされるのだろうか?

 まず幼児雇用の最低年齢を10歳にひきあげた。そして労度時間を短縮する。オーウェンの競争者の工場では、毎日13時間から14時間労働だったが、ニュー・ラナークでは10時間半にすぎなかった。綿花恐慌のために4ヶ月間の休業をしなければならなくなったときにも、休業中の労働者にひきつづき賃金の全額が支払われた。

 また労働者に住宅を用意し、協同組合を作って、福利厚生にも力を注いだ。もっとも重要視したのは教育、とりわけ幼児教育である。1819年、工場に幼児を預かる共同遊び場を創設したのが、英国のインファント・スクール(幼稚園)の始まりとされている。

 これはもはや工場を中心とするひとつの町づくりであった。ニュー・ラナークは「社会改良のメッカ」として、全ヨーロッパの名声をかちえた。

 しかし、こうしたことで、オーウェンは満足しなかった。ニュー・ラナークの工場の労働者の生活も、まだとうてい人間にふさわしいものではなかった。「この人たちは私の奴隷であった」とオーウェンはいっている。

 資本主義、この新しいものすごい生産力は、資本家を富ませ、大衆を隷属化するのに役立ったのにすぎない。オーウェンにとっては、社会の改造のための基礎を提供するものであり、万人の共同所有として、万人の福祉のために役立つべきものだ。
 そして、共産主義者として、1825年、「ニュー・ハーモニー平等村」の実験へと発展していく。……しかし全財産をつぎこんだニューハーモニー計画は失敗。

 ニュー・ハーモニー村は、生産と消費の協同をめざしたものだったが、失敗の一因は、消費に重きが置かれたことだったとされる。生産と消費の真の調和をはかるためには何が必要だろう? オーウェンは、貨幣を廃止して、そのかわりに労働時間を単位とする「労働券」を媒介として生産物の公正な交換をめざす「全国公正労働交換所」を設立した。しかし、労働時間算定のむずかしさから、この計画も失敗に終わる。

 1829年にはオーウェン主義者のドーアティが全国的な紡績工の組織「全英紡績工総同盟」を結成する。1830年の七月革命の影響のもとに、1834年には労働組合のすべてを包み込む「労働者全国大連合」を結成するに至った。この組織は発足後数週間で50万人以上が参加する。

 オーウェンはこの組織に資本家や政府も参加させて、平和的に待遇改善を求めていくという考えの持主だった。しかしチャーチスト運動の高まりで、労働組合運動が急速に階級闘争の色彩をおびていくなかで、この運動からも離脱してしまう。晩年には心霊の世界にのめり込んでいたオーウェンが、困窮のうちにこの世を去ったのは、1858年、87歳のことだった。

 さて、オーウェンは、ユートピア社会主義者(空想的社会主義者)の代表格とされてきた。

 これはマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』(1848年)のなかで、「批判的・空想的社会主義および共産主義」として、オーウェン、サン・シモン、フーリエの3人を取り上げたのが始まりである。
 エンゲルスは『反デューリング論』(1878年)において、この3人の先駆者を「偉大なる空想的社会主義者」として取りあげた。この本からから抜粋したのが、マルクス主義の入門書『空想から科学への社会主義の発展』である。

 オーウェン、サン・シモン、フーリエの3人は、労働者階級を社会的変革のにない手とみる「科学的認識」にまで到達することができなかった。資本主義も労働者階級も未発達で、立法や教育による啓蒙主義の枠を超えでることはない「空想的」な社会主義にとどまったのだ、と。

 しかし「偉大なる空想的社会主義者」という日本語の表現は、「赤旗」の慇懃無礼な文章のように、ほとんど「いやみ」にしか聞こえない。「空想的」という訳語は、先駆者たちにあまりにも礼を欠き、不適切ではないだろうか。エンゲルスのいうことが全面的に正しいとしても、せめて原語に忠実に「ユートピア的」(理想郷的)という訳語をあてるべきだろう。中世の錬金術にも、近代科学につながるモメントがあるように、エンゲルスもその先駆者たちに敬意をはらったはずである。

 「偉大なる科学的社会主義者」エンゲルスの問題点には、別の機会に譲ることにして、ユートピア社会主義には、かえってゆたかなヴィジョンが見られることを忘れてはならないだろう。オーウェンの提唱した「全国公正労働交換所」は、ずっとのちのプルードンの交換銀行に先立つものであり、今日の地域通貨やエコマネーの原点となるものだ。

 また、オーウェンは「ユートピア」を追い求めたかもしれないが、けっして「空想的」な思想家ではなかった。1823年、オーウェンがアイルランドの困窮を救うために提案した共産主義的コロニーの計画は、投下費用、年々の支出、および予想収益についての完全な見積をそえた将来計画で、専門家のだれが見ても非の打ちどころのないものだった。オーウェンはすぐれた商人であり、経営者であり、そして実践的な思想家だった、……第一インターナショナルのバクーニンとの論争で、実在もしない支部を次々にデッチあげては、組織崩壊においやったマルクスよりは、はるかに。

 マルクス主義は、19世紀における先駆者たちの思想の価値ある部分だけ「弁証法」的に総合したものだとされてきた。しかしソ連が崩壊して、共産党も影響力を失ったこの時代において、エンゲルスの唱えたような、マルクス主義の優位性は、いかなる意味でも通用しない。マルクス主義という巨大な思想のジクソーパズルがバラバラになった、その断片を、新しい時代の光に当てて、新しいビジョンを構想していくこと、このことが私たちの課題となるだろう。


【参考文献】
『反デューリング論』 エンゲルス(岩波文庫)
『社会思想史入門』 城塚登(有斐閣)

【参考サイト】
▽ロバート・オーウェンに関するソース
http://cruel.org/econthought/profiles/owen.html

▽A New View of Society, Or, Essays on the Principle of the
Formation of the Human Character, and the Application of the
Principle to Practice
by Robert Owen
1813-16
http://socserv2.socsci.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/owen/newview.txt

▽ホントはどんな人?―PICK UP ロバート=オーウェン(桐原書店)
http://www.kirihara.co.jp/scope/pickup/200403/pickup.html

▽『空想から科学へ』 エンゲルス(電子アーカイブ)
http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/kuso0.html

▽ロバート・オーウェンのニューハーモニー計画
 「協同村」という計画された庭園都市
http://www.geocities.com/genitolat/Utopia/041.html