1588年5月13日、バリケードの日。

 フランス第8次宗教戦争における歴史の一幕。パリの旧教徒市民と、ギーズ公の旧教同盟貴族が蜂起したのだ。旧教徒は夕方にはパリを制圧して、国王アンリ3世はシャルトルに逃れる。

 バリケードの歴史はかくも古い。パリの歴史は革命の歴史であり、また革命はバリケードの歴史である。

 不屈の革命家ブランキは、その主著『武装蜂起教範』バリケードについて図解入りで詳細に論じている。このブランキ式バリケードは、防禦壁・内壁・斜堤の 3層構造から成り立っている。ブランキは、このバリケードの構築にあたり、どれだけの石が必要になるか、事細かに計算している……計算違いもあるのだが。防禦壁・内壁は高さ3メートル、厚さ1メートル。敵の侵入をはばむ斜堤は、45度の傾斜で長さ4メートル。パリの公道を舗装する敷石は25センチ角である。道路の幅が12メートルとした場合、バリケード全体の容積は合計144立方メートル。したがって、敷石は全体では9186個、公道から長さ48メートルにわたって敷石をはぐことが必要になる。
 バリケードは敵との戦いのために、軍事的に必要というばかりではない。このバリケードの構築それ自身が、パリのプロレタリアートが、社会を変革するための自己の力に覚醒する自己解放の契機となるだろう。

 「パリの労働者は、自分たちの持っている重要な力を認識していないように思われる。その力とは、すぐれた知能と巧みな技能だ。この力は汲めども尽きることはなく、巧妙かつ強靭で産業上のあらゆる機能に通じているのだから、パリの労働者にとって軍事用品をわずかな時間の間にたちまちつくりあげることも困難ではなかろう。大工、指物職人、錠前職人、鋳造工、旋盤工、左官など、すべての用を満たす人々がおり、敵に比べて百倍の工兵がいるとも言えるのだ」(「武装蜂起教範」)

 1968年のフランス五月革命において、1000万人の労働者がゼネストに突入したのも、1968年のきょうのことである。フランス全体が停止状態に陥った。労働者を中心とするデモには100万人が参加した。革命の火の手は、革命的学生−−トロツキー主義者、毛沢東主義者、アナキスト−−の戦闘的な行動で火蓋を切られ、労働者大衆までに一挙に燃え広がった。そしてこのフランス五月革命の巨大な爆風は、日本の全共闘、ドイツのSDSの闘いを誘爆していくだろう。

 バリケードといえば、「カクテル」も忘れてはならない。きょうはカクテルの日。

 1806年5月13日、アメリカの雑誌『バランス』に、はじめて「カクテル」……蒸留酒に砂糖、水、ビターを加えて作る刺激的な酒……という新しい酒が紹介される。(CockTailということばの初出そのものは、これより古く、1748年にロンドンで出版された小冊子『ザ・スクァイア/レシピ−ズ』だとする説もある。)

 もちろん、このBlogで「カクテル」といえば、モロトフ・カクテル(火炎瓶)のことである。ポーランドの将軍モロトフが第一次大戦に発明したため、この名がある。「火炎瓶」の名が一般に知られるのは、1939年のノモンハン事件であり、日本陸軍がソ連軍にガソリン入りのサイダー瓶を投げたことに始まる。戦時中の少年雑誌には、火炎瓶は敵戦車を炎上させる威力があるから、少年諸君はぜひ一つ作って試すがいいという記事が出ていたという。(木村哲人氏による)

 1972年のきょうは、5月14日からの火炎瓶規制法施行の前日にあたっていた。いわゆる過激派にとっては、「火炎瓶投げ納め」の日であった。1972年5月13日の公安記者の日記より。

 「警備一課できのうの明治公園のこと。『きのうは内ゲバやらせてとる(検挙)つもりだったんだが、こんなときに限ってやってくれないんだな。やらせるといっても死人でも出たんじゃ、なぜ事前に凶器類を押収しなかったのかとか君らに書かれるのは決まっているので、一応部隊ですこしは事前に押収したけどね。難しいもんだな』
 ブント「戦旗派」を中心に、明大前で火炎ビン投げ納めの解放区闘争。」
(『過激派壊滅作戦』)

 この日以降は火炎瓶を使うのにも、爆弾を投げる並みの決意が必要となる。

【参考文献】
『ブランキ革命論集』 加藤晴康編・訳(彩流社)
『テロ爆弾の系譜』 木村哲人(三一書房)
『過激派壊滅作戦』 滝川洋(三一新書)