1946年のきょうは、日曜日だった。世田谷区では、人々の怒りが頂点に達していた。主食の配給が12日間も遅れていたのだ。主婦や労組の活動家数百人がつめかけた「米よこせ区民大会」が開かれていた。

 当時は、人々の間で、食べ物のことが話題にならない日はなかった。成人一人が必要とするカロリーは、政府基準で2200キロカロリーとされていた。しかし政府の配給は、1946年半ばから47年の半ばにかけて、その三分の一から四分の一を満たすものでしかなかったのである。闇市を利用しない人はゼロに等しく、1948年になっても、「今の日本で違法行為をやっていない人間は、刑務所に服役中の人間だけだ」といわれたほどである。飢餓と欠乏が、民衆の草の根の政治参加をうながしたのだ。

 この世田谷区民の集会には、思いもかけずビッグな人物が姿を現した。日本共産党の野坂参三である。

 野坂参三が中国での活動を終えて帰国したのは、この年、1946年1月半ばのことだ。博多から東京に向う列車のなかで、後に有名になる「愛される共産党」という声明を発表する。野坂が共産党本部に到着したときには、和服やドレスで着飾った若い女性たちが多数つめかけ、さながらスターを迎えるような大騒ぎだった。「ステキだったわ!」「みんな赤い旗を振っていたのよ!」と女性たちは大感激だったそうである。
 まさに国民的スターである野坂が、トラックの荷台に立ち、こう演説したのだから、たまらない。

 「我々に残された道は天皇のところへ行くより他はない。このデタラメな官僚を任命した天皇は……君たちの行先は宮城だ」(『昭和天皇とその時代』河原敏明より)

 この発言は集会参加者たちに圧倒的な感動とともに支持され、集会のそのほかの決議とともに「国民の声」としてまとめられ、天皇裕仁に届けられることになったのだ。集会参加者は二手に分かれて、一隊は世田谷区民所へ、もう一隊は二台のトラックに分乗して皇居に押しかけたのである。

 世田谷区のデモ隊と宮内庁の役人たちは坂下門で小競り合いになった。

 「ここで、ご用件をうかがいましょう」
 「無礼をいうな。人民の代表を門前払いにする気か」

 労組の男たちや主婦、子どもも含む総勢113人は、一挙に坂下門になだれこんだ。

 「天皇に会わせろ!」
 「天皇出てこい!」

 しかし宮内庁の役人たちは、どこまでも逃げ口上を繰り返すばかりだった。デモ隊も疲れてしまったらしい。そこで次のように妥協したのだった。

 「では、天皇がどんなものを食べているのか、見せてもらおう」

 宮内庁の役人は困惑の表情もあらわに、地階の調理場へ案内した。そこには大量のご飯、魚、野菜があった。

 「人民が飢えているというのに、こんなに沢山炊いているのか!」

 「天皇って大食いなんだな」

 と、みんな口では罵声をあげつつ、……しかし手づかみでむさぼり食い、「また来るからな!」と捨て台詞を残して帰っていったのだった。みんな腹をすかせていたのだろう。

 実はそこは大膳(天皇の台所)ではなかった。宮内庁の当直者や引揚者の家族のための職員用の調理場だったのである。しかし、このとき天皇の台所(と彼らは信じた)の目撃情報が、さらに民衆の怒りを駆り立てる。

 一週間後の5月19日、皇居前広場に25万人が結集して、「飯米獲得人民大会」が開催される。配給米の確保や食糧の人民管理を政府に要求したこの集会は、5月1日の復活メーデーにつづき、「食糧メーデー」と呼ばれている。明治憲法下の刑法が定めた「不敬罪」の最後の適用事例になる有名なプラカードが登場したのは、この食糧メーデーのさなかのことだ。

 「詔書 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」

 このスローガンを、「陳腐だ」と評した文芸批評家がいる。たしかに左翼の皇室批判は、「皇室アルバム」を裏返したにすぎない、紋切り型な陳腐なものが多い。しかし、この件については、たかが象徴の分際でありながら、人民の代表に会おうとしないばかりか、何も知らないのをいいことに、職員用厨房にだまして連れていった宮内庁の役人どもが悪いに決まっている。職員用なら、食べ物がたくさんあって、「朕はタラフク食ってる」と飢えた民衆の憤激を買って当然ではないか。

 もし、まちがいがあるとしたら、共産主義者であるはずの野坂参三が、「お上に直訴!」という日本の伝統的な方法しか思いつかなかったことだろう。「国民主権」の時代だというのに、民主革命を推進する共産党の指導者が、「天皇にお願い」してどうするのだ? 5月19日の食糧メーデーの決議文も、「君主」「元首」である天皇に食糧危機を解決し、堕落した政治家・官僚・地主の不正を正して、労働者と農民の民主連合戦線に対する支持を恭しく「お願い」するというものだったのだ。日本の近現代史研究者ジョン・ダワーは、呆れながらこう書いている。

 「徳田(球一)は天皇裕仁を冗談の種にして喜んでいたかもしれないが、ほんとうの冗談は、彼の党が、この激しい衝突の瞬間に、君主制を認めてしまった点にあったのである。……世界の民主主義運動史上でこれほどの茶番劇を見出すことはできないだろう」

【参考文献】
『昭和天皇とその時代』 河原敏明(文春文庫)
『敗北を抱きしめて』 ジョン・ダワー(岩波書店)