1857年5月10日、インドの大反乱。

 世界史の授業では、「セポイの反乱」と教わった。しかし、インド・パキスタンでは、「1857年の大反乱」であり、「第1次インド独立戦争」として位置づけられているそうである。おぼえておこう。

 反乱に火をつけたのは、イギリス東インド会社に傭われていたインド人兵士(シパーヒー、これが日本ではセポイと訛った)である。しかしこの反乱は、兵士たちばかりではない。ムガール皇帝、旧地方の権力者をはじめ、大地主・農民・都市部の宗教的指導者などをも含めた、インド全土を巻き込んだ内乱だった。
 
 1757年の初採用以来、東インド会社は、実に兵力の5分の4を彼らインド人兵士に頼るにいたっていた。大英帝国が「文明」と「キリスト教」と「労働の尊厳」を教えた「奉仕」の返礼として、大英帝国のために戦わしめよというのが、当時のイギリス人一般の感情だったのだ。(J.A.Hobson, IMPERIALISM, http://www.fordham.edu/halsall/mod/1902hobson.html)

 しかしこれだけバランスが崩れると、いつ矛盾が爆発してもおかしくなかった。
反乱のきっかけは、1856年に導入された、新しいエンフィールド銃である。この新銃に弾丸を装填するには、油紙製の弾薬筒を歯で噛み切らねばならなかったのだが(図解:http://page.freett.com/sukechika/ishin/kaisetsu/enfield.html)、しかしこの油紙には、牛脂(ヘッド)や豚脂(ラード)が用いられていたのである。

 牛はヒンドゥー教徒にとっては聖なるものであり、豚はイスラーム教徒にとって不浄なるものである。シパーヒーたちは、この新銃の受け取りと使用をボイコットした。イギリスは弾薬包を手で破るように改めたが、メーラトの連隊では90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否した。軍法会議でこの85人に 10年間の強制労働の判決が下り、5月9日に投獄された。反乱が起こったのはその翌日である。

 狡猾なイギリス人のことだから、日本に真珠湾攻撃を仕掛けさせたアメリカ軍のように、シパーヒーを挑発するために、わざと弾薬筒にヘッドやラードを用いたのかもしれない。1857年5月10日に始まった反乱は、形骸化していたムガル皇帝バハートゥル=シャー2世の復権を宣言した。そしてデリーでは、行政会議がつくられ、兵士・民衆の手になる反乱政権を一時的に成立した。イギリスはこの反乱をたたきつぶすために、全力をあげる。当時の『タイムズ』より。

 「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたき壊せ。白人殺害1人の殺害に対して老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ」

 ……この毛唐め!

 1857年9月にデリーが陥落するとムガル皇帝は降伏。大反乱の結果、イギリスの統治権は東インド会社からイギリス国王に移った。いわゆるイギリス領インドが1858年から始まる。

 ところで、このインドの反乱に先立つ「チャパティ・ランニング」について、触れておきたい。(http://www.rediff.com/freedom/06chap.htm)

 1857年に入ってまもなく、イギリス人には奇妙としか思えない出来事が、インド各地で見られた。インド人の主食チャパティ(小麦粉を平たく焼いたパン)が、おそろしい速さで北インドの村から村へと配られはじめたのだ。配っている当人でさえ、だれが、何のために始めたのか、何もわかっていなかったのだ。彼らにわかっていたのは、5つのチャパティを焼いて、先々の村に配ること。そして、もしイギリス人将校に尋問されたときは、「あなたのために作ってきました」と答えるように指示されていたことだけである。このふしぎなリレーは、北インドの東から西に、デリーに向かって進んでいった。

 今度は、兵士の手から手へ、連隊から連隊へと、美しい蓮の花が手渡されていった。「1757年のプラッシーの戦いから100年目の1857年に、イギリス支配は終わり、イギリス人は海に追われて死ぬ」という予言とともに。

 現代でいえば、このチェーンメールに似たふしぎな現象については、これ以上のことは、よくわからなかった。同時代の清朝に反旗をひるがえした太平天国の乱(1851年)、日本の明治維新に先立つ伊勢参りなど、民衆の千年王国的なユートピア叛乱との合わせて考えることもできるかもしれない。

 ひとつはっきりしているのは、このチャパティ・ランニングが、イギリスに対する心理作戦として絶大な効果を発揮したことだ。敵の強きを避けて、味方の存在や意図を知られることなく準備を進めるのが、レジスタンス−ゲリラ戦の基本である。使い方さえ間違えなければ、チャパティでさえもその有効な武器になるというのが、きょうの教訓である。