1886年5月8日、コカ・コーラ発売開始。

 製造販売を開始したのはジョージア州アトランタの薬剤師ジョン・S・ペンバートンだった。商標のCoca-Colaは共同経営者 F・ロビンソンが考案したものである。
 最初にあったのは、コカインの原料であるコカの葉のエキスと、ワインを混合してフレンチ・オブ・コカという飲料だった。これは病気になら何にでもきく万能薬として売られていた。これにアフリカの先住民が興奮剤・強壮剤として嗜好していたコラの実のエキスを加えたものが、現在のコカ・コーラの原型になっている。

 日本に最初にコカコーラが入ってきたのは、大正年間のようである。高村光太郎の初期作品『道程』には、「コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH/銀座ニ丁目三丁目それから尾張町」(「狂者の死」)というフレーズが登場するが、日本人の味覚にはあわず、ほとんど広まらずに終わった。
 第二次世界大戦の敗北後、占領軍とともに日本再上陸する。アメリカの外圧に押し切られる形で、輸入が自由化されるのは1956年のことである。その後の東京オリンピック、大阪万博のなかで、若者のサブカルチャーに結びついて急速に広がり、定着していった。問屋を通さない直販方法や、自動販売機の活用に見られるように、日本の流通システムにあたえた影響も大きい。現在、日本国内でのコカコーラの自販機台数は約100万台、販売先はコンビニ・スーパー等で、約100万件を超える。

 コカ・コーラ製品をボイコットする人たちがいる。コロンビアのコカ・コーラのボトリング工場の労働組合リーダー射殺事件がきっかけになった。
1985年以来、実にコロンビアでは4000人以上の労組活動家が殺害されている。この殺害のほとんどは右翼準軍組織AUC(コロンビア自衛軍連合)によるものだ。コロンビアの労働者の声に耳を傾けてみよう。『ファルージャ、2004年 4月』(現代企画室)の訳者の一人でもある益岡賢氏のサイトより。

▽コカ・コーラ労働者の声。
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/col110.html

 コロンビアはラテンアメリカで第3位の人口(4100万人)を擁し、面積は第5位である。1990年に新自由主義「開放」が行われて以来、貧困と不平等は悪化している。1990年に絶対的貧困は人口の45%だったが、2001年現在では56%、2300万人が年間500米ドル以下で生活している。さらにこの絶対的貧困層は、地方では86%にものぼる。

 事態を悪化させたのは、コロンビアが北米自由貿易協定(NAFTA)に加入してからのことだ。コロンビア政府の農業保護政策は、「不正で不公正である」と完全に撤廃され、14万人以上の農民が仕事を失った。この絶対的な貧困のなかで、農民たちはどうしたらいいのだろうか? 都市に出てアンダーグラウンド経済に加わるか、アマゾンに行って現金化できる唯一の作物……コカ……を栽培するか、自分を守ってくれる民間自衛組織に加わるしかない。貧困こそ、テロリズムの温床なのだ。

 「この国は、コカコーラの瓶に入れられて育ったトカゲだ。」(寺山修司『書を捨てよ、街へ出よう』)

 コカ・コーラはどうして、アメリカを象徴するグローバル・ブランドに成長したのだろうか? 私たちは敵のやり方にも学ばなければならないだろう。「アメリカ広告界の帝王」といわれたオグルビーの直系の広告人であるローマンは、「グローバル・ブランド」の成功の鍵について、こう説明している。

 「完全な車輪を作って、それを使えと送り出したところで、人々は車輪がぐらつく使い方を見つけ出すだけだろう。違う乗り物に取り付けてみたり、空気を入れるのを忘れたりして「これじゃうまく走れない」と言い出すのだ。
 別のアプローチを使って、「どうやらうまくいきそうな丸いものを見つけたよ。これが図面で、作った人の名はこれだ。これが君の国でうまく走れる方法を探してみたらどうだい」と言ってみることだ。
 自分たちが作ったと思っている車輪で走らせると、車輪は最もよく走る。」

 コミンテルンと各国共産党、共産党と民青・各民主団体との関係を考えるときに、じつに興味深い指摘ではないだろうか。

【参考・引用文献】
『売れる広告 効くメッセージ』K.ローマン+J.マース(日本経済新聞社)

【参考サイト】
▽コカ・コーラ ヒストリー(コカ・コーラウェストジャパン株式会社)
http://www.ccwj.co.jp/history/
▽コカコーラ製品のボイコット
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/colcoke2.html