1919年、五・四運動。

 1911年の辛亥革命は、近代国家の建設に受け継がれることなく、やがて袁世凱を中心とする軍閥独裁へと変質していった。そのなかで日本は第一次世界大戦のドサクサにまぎれて、1915年1月、「二十一ヶ条要求」−−日本が中国を独占的な植民地化するという条約をつきつけた。

 これに対する反対運動は、まず学生の間に起こり、徐々に国民的規模に拡大していった。

 中国の北京政府は、1919年1月に開かれたパリ講和会議で、二十一カ条要求の取消しと山東省におけるドイツの権益の返還を要求する。しかしこの要求は帝国主義列強によって退けられ、4月末に山東省のドイツの利権を「戦勝国」日本が継承することが決定される。
 北京大学の学生たちは、5月7日(日本が二十一カ条要求を通告した日)に決起することを呼びかけた。しかし政府がデモを武力で解散させようとしていると知るや、即座にデモを急遽5月4日に繰りあげる。

 そして1919年のこの日、北京の学生約3000人が「二十一カ条を取消せ」「青島を返せ」「売国奴・曹汝霖(二十一カ条の要求の交渉にたずさわった人物)らを罷免せよ」などと書いた小旗を振りながら北京市内で大がかりなをデモ行進を行い、亡国の危機を訴えた。学生たちは曹汝霖の邸宅を襲撃して放火し、軍隊と衝突して学生32名が逮捕された。これが五・四運動である。

 北京政府は6月に大がかりな弾圧を行い、約1000人の学生を逮捕する。しかし燎原の火のごとく中国各地に広がった五・四運動は、もはや押しとどめることはできなかった。多くの都市で労働者たちのストライキ、日本製品のボイコットなど大衆運動が展開され、反帝国主義・反封建主義の新しい愛国運動へと発展していった。

 この運動の広がりに、北京政府はついに6月に入って学生を釈放。曹汝霖ら親日派要人を罷免して、6月28日にはヴェルサイユ条約の調印を拒否する。

 この五・四運動とは、近代中国の民衆運動が最初に勝利した記念すべき出来事であり、中国革命の大きな転換期だった。五・四運動を上海で目撃した孫文は、 1919年10月、秘密結社であった中華革命党を中国国民党と改称して、公開政党とする。また五・四運動の思想的指導者の一人、陳独秀(1879−1942)は、1921年7月、コミンテルンの支援によって、上海で中国共産党を創設、その初代総書記となっている。

 五・四運動当時の中国は、さまざまな社会変革の思潮が混在していた時期であり、マルクス主義の初歩的な文献が中国にようやく翻訳された時期でもあった。五・四は、社会革命であると同時に、文化革命でもあった。

 中国共産党の創設者であった陳独秀は、1915年に雑誌『新青年』を発刊して「民主」と「科学」をスローガンにする「新文化運動」をすすめた、五・四運動の旗手だった。陳独秀らは、世界の新しい変革の動きを中国に伝えていくなかで、北京大学でマルクス主義研究会を結成した李大■らとともに、みずからも革命運動の担い手になっていく。(■ 「金」編に「リ」)

 もちろん、こうしたマルクス・レーニン主義ばかりではない。『新青年』誌上で李と論争して、社会主義を空論として批判した胡適(1891−1962)は、米国に留学して、デューイのもとでプラグマティズムの哲学を学んだ人物である。胡適じしんは、日本でいえば福沢諭吉のような人物で、思想的には深いものはなかったといわれている(竹内好「胡適とデューイ」による)。しかし口語文学による白話文学を推進した「文学革命」が、「五・四」という価値転換のモメントとなったことはまちがいないだろう。

 五・四運動のさなか、胡適の師だったデューイが中国を訪問している。デューイはデモ行進に参加した学生たちがポケットに洗面道具を持っていることに、非常に感動したという。全員逮捕覚悟で、中国における新しい精神、近代精神の芽生えだと高く評価したのだ。

 この当時のデューイの五・四運動に対する分析と評価は、こんにちの反日デモを考えるうえでも、興味深い視点を提唱している。(以下の引用は竹内好による要約)

 「学生たちは、モブ(暴徒)としてでなく、人民の代表として、人民への献身のために行動している。排外運動は、後進国がナショナリズムを確立するための唯一の手段であって、罪は帝国主義の側にある。中国の民族運動は、外国の観察者がいうように、帰国留学生の煽動によるものでなく、民族自身のもつエネルギイの発露である」

 さらにデューイは、日本と中国を対比する。デューイは中国訪問の途上、日本も訪ねているが、西欧的でモダンな政治・文化運動されていた大正デモクラシーも、、「西洋からの借り物」にしか映らなかった。

 「日本は、外見ははるか近代国家だが、本質的には、封建的なものが強く残っている。中国は、文化が古いために、日本より保守的であり、したがって近代化がおくれたが、それだけに改革のやり方が徹底的であって、国民心理の変革という基礎工事からはじめているから、より確実である。今後に残された必要なものは、ただひとつ、産業革命だけだ」

 産業革命による近代化に期待をかけた、デューイの最後の予想だけは外れた。しかしそれ以外のデューイの観察は的確無比なもので、「中国人は日本人よりはるかに大きな変化を遂げるであろう」と予言したのだった。

 デューイが中国に見せたシンパシーの背景に、当時の中国に約2500人の米国人宣教師が中国に滞在していたことがあげられるだろう。宣教師たちは大学や病院をはじめとするさまざまな文化・公共施設を提供するとともに、農村奥地にも分け入って布教活動と同時に社会奉仕活動を続けていた。中国側にしてみても、アヘン吸引を押しつけたイギリス人とは異なって、例外的に好感情を抱きうる<洋鬼子>(ヤンクエイツ)だった。

 レーニン風にいえば、「遅れた日本と進んだ中国」を対比してみせたデューイは、日本人の中国に対する態度とは、大きく異なるものだった。

 日本では、パール・バックの『大地』のような作品をついに生み出せなかったし、エドガー・スノーのように、中国共産党の根拠地まで潜入して、中国革命と中国民衆の新しい姿を世界に紹介したジャーナリストも登場することはなかった。

 そればかりではない。日本帝国主義の中国侵略戦争は、中国の民衆にとっては、文字通りの「第二次アヘン戦争」だった。日本は内モンゴルに傀儡政権を樹立して、「国策」として中国全土に、アヘン・麻薬政策を展開したのである。軍部だけが関与したのではなく、三井物産のような大商社が積極的に関与した。この歴史は、現在の中国の反日デモの底流にあるときものを考えるとき、忘れてはならないことであろう。

 2005年の現在、中国はすでに米国を抜いて、日本最大の貿易相手国となっている。急速する東アジア地域での進出=「東アジア自由貿易圏」の構想を、「大東亜共栄圏」の再現として批判するだけでは不十分である。いま、排外主義として現れている中国民衆のエネルギーを、国際資本のグローバルな暴力に対するオルタナティブに転換するための戦略は、どのようにして可能だろうか? 


【参考文献】
『中国』 中島嶺雄(中公新書)
『日本とアジア』 竹内好(ちくま学芸文庫)
『日中アヘン戦争』 江口圭一(岩波新書)

【参考サイト】
▽新青年社(大崎しおり氏による)
http://aonoken.osaka-gaidai.ac.jp/zjcidian/liupai/xinqingn.htm
▽『トロツキー研究』39号・2002冬 「特集 中国革命と陳独秀」
 陳独秀は失脚後、スターリン主義批判に転じて、陳独秀は失脚、中国トロツキー派の代表となっている。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/39/mokuji.htm