5月3日は、憲法記念日。

 1947年のこの日、日本国憲法が施行したのを記念して制定された。なお、公布日の1946年11月3日は、「文化の日」となっている。

 現在、第9条の戦争放棄条項を中心に、改憲論がかつてない高まりを示している。

 きょう(5月3日)の朝日新聞Web版の世論調査を見てみよう。

 「自衛隊の存在を明記」(58%)と「普通の軍隊にする」(12%)を合わせても、7割の人が憲法の改正を求めている。

 しかし正面から9条改正の賛否を聞くと、「反対」(51%)が「賛成」(36%)を上回っている。しかし「自衛隊への国民の支持は広がり」ながらも、「9条を堅持したいという願いの強さがにじむ」と感傷的に護憲の論調に結びつけるのが、まことに朝日新聞らしい。
 しかし、そんな「願いの強さ」など感じられない。自衛隊は承認するけれども、憲法九条もそのまま手を加えたくない。ここにあるのは、ただ「戦争」という現実を直視したくないだけではないだろうか? この朝日的な「護憲の願い」は、誰がどう見ても明らかに「戦場」であるイラクを「非戦闘地域」だと詭弁を弄して、そこで当然生じるであろう自衛官の死や負傷を語ることさえタブーにして、丸腰状態で派兵させた小泉政権の思考停止状態と釣り合っている。
 
 憲法第九条の非戦の理念は、保守・革新を問わず日本の政党には担いきれず、ことあるごとに政争の的になってきた。しかし改憲派の自主憲法制定論にも、護憲派の平和原則堅持論にも、ともにやりきれない印象を受けざるをえない。

 改憲派は、国家主権の独立のため在日米軍の撤退まで進まねばならないはずなのに、このことには頬かむりにして、対米追随政策を続けるばかりだ。ひるがえって、護憲派は、戦争放棄・平和主義を自分の力で勝ち取ったものでないことも、世界を見回しても、アメリカもロシアも中国も、軍事力を増強するという方向性を捨てていないことも、あまりにも過小評価してきた。

 第九十回帝国議会衆議院で、「非武装なんて能天気なことをいうな、国家である以上、軍隊を持つのは当然ではないか」と吉田茂首相に鋭く質問したのが日本共産党の野坂参三だった。この当時は共産党は改憲派で、自民党は護憲派だった。それがいつの間にか逆転して、護憲派・改憲派両者のもたれあいのなかから「解釈改憲派」が登場して、憲法の非戦条項はなしくずしにされてしまった。

 「九条の会」のような絶対平和主義は、たしかにこの時代に対する一つの「回答」ではあるだろう。しかしポスト冷戦終の戦争をふりかえってみよう。湾岸戦争を唯一の例外として、アメリカの軍事行動は、すべて内戦・内戦下の人権抑圧・大量虐殺への「人道的介入」とされてきた。

 しかし「戦争反対」というだけでは、戦争の廃絶にも、人権抑圧の現実の解決にはならない。「護憲派」の弱さの一つはその点にある。

 それでは、国際紛争については、軍事介入の基準等について、もっと明確な基準を創り出すようにすればよいのだろうか? イラク戦争では、国連安保理決議がなかったことが批判の理由にあげられる。しかしコソボ紛争をめぐるNATOのユーゴ空爆も、アメリカ主導のNATOの一方的決定に基づいて強行され、国連安保理決議はなされなかった。高木徹『戦争広告代理店』(講談社)が明かにしたように、コソボ介入は広告代理店を使った情報操作によって国際介入を世論づくりがなされたことは周知の通りである。イラク戦争でもアメリカが情報戦争−情報操作に異常なまでのエネルギーを注ぎ込んだのはいうまでないだろう。国連も無力である。

 このような現実を前に、どうやったら非戦の理念を実効化できるかのだろうか。


 ■国家に対するリコール権を行使しよう
 
 第1に、国民主権を実効化するためのリコール権を確立していくことである。政府が自由に軍隊を動かすことを許しているうちには、いつだって平和は脅かされる。
 政府が日本の大半の民意を代表しようとしないとき、市民は市民独自の判断で行動を起こす権利があることを明確にしていこう。国民の無記名の直接投票により、いつでも政府を代えることができるリコール権を実現していくこと。 真の意味での国民主権を実行に移すことなくして、憲法第九条の非戦主義を現実化してゆくこともできない。

 ■「民主自衛隊」を創出して、真のシビリアン・コントロールを実現しよう

 第2に、軍隊の国家による管理・統制でなく、市民による真の意味でのシビリアン・コントロールを実現することである。民衆の直接の同意なく、民衆が直接動員できないような軍隊の存在は認めてはならない。
 自衛隊に対するオンブスマン活動、自衛官の人権ホットライン活動なども重要な取り組みである。さらに「若者に仕事を!」と訴えるわが民主青年同盟を先頭に、自衛隊に民主的入隊して、「民主自衛隊」を創出することである。
 いま自衛隊では自殺者が急増している。いまの日本の資本主義の矛盾が、自衛隊に鋭く集中しているのだ。「制服を着た市民・労働者としての自衛官」の生活と権利を守り抜く民主自衛隊運動の創造なくして、自衛隊のほんとうの意味でのシビリアン・コントロールはありえないのである。

 ■市民的不服従のパワーで、憲法改悪を無効化してしまおう

 もちろん、衆院参院両議院の三分の二で改正案は成立して、国民投票で投票総数の過半数の賛成があれば、憲法改正は成立する。
 自衛隊に民主的に入隊するまでもなく、徴兵制も実現してしまうかもしれない。
 もちろんこのようなことは許すべきではない。しかし憲法とは、まず国家が守るべきものであり、官僚が守るべきものである。日本共産党の新綱領が、留保つきとはいえ、象徴天皇が「憲法上の存在」だからと容認してしまうようなあり方は、誤っている。
 憲法がどうあろうとも、主権者である国民一人ひとりが良心に反する政治に従う必要はない。「あいつらのお役に立つ人間にだけは絶対にならないぞ!」と市民的不服従で、改憲そのものを無効化してしまおう

■「国家」を廃絶するラジカルな平和闘争の創造へ

 戦争放棄を謳った憲法9条は、「非現実的」で「ユートピア論」で「理想主義」だといわれてきた。しかし逆にこうもいえる。20世紀には2億人が、交戦権を持つ「国家」というものによって殺された。そしてその死者の大半が、非戦闘員だったというのが歴史事実ではないだろうか。

 戦争でもうけるのは、だれだろう? その対価を支払うのはだれなのか?」死んでいくのはだれなのか?

 戦争を廃絶するためには、究極的には、この地球上から、戦争と抑圧の根拠そのものである「国家」そのものを廃絶するしかない。国家こそは宗教的共同体の最高にして最後の形態である。

  マルクスやレーニンの生きた時代は、まことに幸せだった。搾取はいまや処刑の脅迫、無差別テロの脅迫、崩壊の切迫、さらにそれが引き起こす戦争の脅迫というかたちをとっている。

 もはや資本主義でも社会主義でもなく、唯物論でもなく観念論でもない、人間存在の倫理を根底から問い直す新しいビジョンが問われているのだ。

 そろそろ改憲阻止のための集会に出かけねばならない。最後に、平和への闘争の意義を訴えるために、大著『<帝国>』で脚光をあびたネグリが、フェリックス・ガタリと共著で著したパンフレットから引用してみたい。20年も前のパンフレットだが、その内容は少しも古くなっていない。

 「幾つかの国々において平和闘争は道具化され、“スターリンの平和”の卑劣な時代をわれわれに思い出させるまでに堕落しているのである。われわれは社会の中性化に基づく“平和”を嫌悪する。それは例えばポーランド人民の決定的な抑圧に何の傷みも覚えぬ類の連中の“平和”なのだ。われわれは、それに対して、平和への闘争をあらゆる解放闘争がそこで編まれてゆく緯糸のようなものとして理解している。つまり、われわれにとって平和への闘争は現状維持の同義語などではないということだ。
 (中略)
 何人かの連中がアフガニスタン人に言う、ロシアがアフガンから出ていったとしてもその代わりにアメリカが征服しにやってくる、と。しかしだから何だというのか? アフガニスタン人は件の言葉に答える、「そうしたらわれわれはみなスキタイ人になるさ」。他の連中がわれわれに言う、もしアメリカの核の傘を拒否すればわれわれはロシアに征服されることになろう、と。しかしだから何だというのか? もしロシアがわれわれを征服しにきたら、われわれはみなポーランド人になればいい。

 われわれはこうした類のあらゆる脅しにうんざりしている。われわれは核爆弾の脅しも資本主義あるいは社会主義の威しもともに拒否する。

 平和とは革命の一状態である」(フェリックス・ガタリ+アントニオ・ネグリ『自由の新たな空間』1985年)


【参考文献】
『憲法詳論』川添利幸+山下威士(尚学社)
『日本国憲法』長尾一紘(世界文化社)
『やさしいことばで日本国憲法―新訳条文+英文憲法+憲法全文』 C.ダグラス ラミス+池田 香代子(マガジンハウス)
『超「戦争論」』 吉本隆明(アスキー)
『市民の精神』久野収+佐高信(ダイヤモンド社)
『自由の新たな空間 闘争機械』ネグリ+ガタリ(朝日出版社)

【参考サイト】
▽九条の会 オフィシャルサイト
http://www.9-jo.jp/
▽自衛官−市民ホットライン(非核市民宣言ヨコスカ)
http://homepage3.nifty.com/hikakusimin/
http://www.jimmin.com/2001b/page_101.htm
▽自衛官人権ホットライン
http://www.jca.apc.org/gi-heisi/