日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+

日本共産党や民青同盟、またやりよった……ぼやきのブログ

2013年10月

【ロシアの社会主義運動−9】

 ネップについて、レーニンは明白に共産主義からの後退戦であり、農民との妥協であると認識していました。但し、彼は、商人の持つ調整機能に着目し、「良き商売人たれ」という言葉を残しています。彼は、共産主義に至る――恐らく当時のレーニンは、共産主義社会は計画経済で運営されると考えていた――には、長い長い市場経済の利用が必須だと考えるに至ったと思います。戦時共産主義でもって共産主義に至る条件はなくなった、と。そして、ロシアの穀物は世界市場で売れることに注目し、それで得られた外貨でもって、欧米の機械を輸入して工業を発展させようと目論見ました。レーニンは、世界市場に開かれたソ連をアピールしようとしました。スターリンが著した『レーニン主義の基礎』を読むと、レーニンはビジネスの方法はアメリカ流に合理的に進めようとしていたようです。彼は「浅ましいほどの実際家」でもあったのです。

 

 しかし、ロシアはレーニンの「世界の資本主義に大幅に譲歩した」構想の道に進みませんでした。まず、レーニンは狙撃された傷と心労が元となり、五四歳の若さで早世しました。レーニン存命中に人事権――書記長という形で!――を握ることで党を支配したスターリンは、経済の機微については鈍感でした。レーニンの見込みとはやや異なり、市場経済の中ではまだ十分に回復したとは言えなかった工業の脆弱さは、農民が買いたいと思える工業製品を供給し切れず、また高いものでした。世界市場と比較した時の農産物の低価格、工業製品の高価格は鋏状価格差(シェーレ)と言われ、ソ連の経済バランスをいびつなものにしました。

 

 結局のところ、スターリンは行政的・指令的な手段で解決することを選びました。そしてこれは後にソ連型計画経済=指令経済に帰着しました。それがどのようなものであったかは、様々な文献に譲りたいと思います。ちなみに、小生は、計画経済は「可能だけど経済官僚の意志に全てが帰着するという官僚独裁に陥るので、全面的にはやめたほうがいい」と思います。勿論、民間企業の運営なんかでは、計画経済めいたことが一杯行われているんですけどね。計画同士は緩く市場を介して結びつくくらいがいいんだと思います。

 

 ソ連は市場経済の柔軟性を取り入れようとしましたが、余りにも強固に基礎的な部分に計画経済=指令経済が組み込まれていて、そこに手を加えようとゴルバチョフが経済改革に着手した際(ペレストロイカ)に、崩壊しました。下部構造を崩した結果、上部構造も吹っ飛んだと言えば、皮肉にもマルクス主義の法則に則っていたと言えるでしょうか。

 

 レーニンの偉大かつ悲惨な革命は、一九一七年から一九九一年の間、ロシアを中心とした地においてシステムとして存在しました。ここまでくどくどとレーニンの革命について書いたのは、この革命には教訓が一杯あるからです。

(続)

ただし、エグゼリーナたんとスレンダーアラフォーたんのメールアドレスが不明で、エクゼリーナたんはなぜかこちらにメールを出しているのに届かないらしい。なので

・エグゼリーナたんは、 見舞いに来た某に「最終案内を送れ」と連絡を
・スレンダーアラフォーたんは、メールを送って来るか、最終案内を受け取ったであろう人から聞きだす


ことを希望いたします。 

しんぶん赤旗
日本共産党の赤嶺政賢議員は29日の衆院安全保障委員会で、11月1〜18日に陸海空の3自衛隊から3万4000人が参加して沖縄・九州を中心に実施予定の実動演習について、日中間の軍事的緊張を高めるものだと述べ、中止を求めました。

赤嶺氏は「『国家のため』といって犠牲になるのは沖縄県民であり、歴史の教訓を全く踏まえないものだ。県民が求めるのは日中間の冷静な話し合いによる解決だ」と強調しました。

そう思うなら、おまえが中国行って汗かいてこい!
「冷静な話し合いで中国船や無人機を引かせたい
と思っているのは、共産党だけじゃない。アメリカ政府も日本政府もそう思って、一生懸命外交で汗をかいている。共産党だけだよ。汗かいてないのは!

ま、「我が党は、中国の犬です」と宣言して言うなら、それはそれでひとつの見識だけどねw



 

以前、あまりに暴言が過ぎるのでネタにしたハンドルネーム大畑清の本名や勤務先の市役所や所属する平和団体の役職(奈良県平和委員会理事 日本国民救援会会員やらがバレてしまった模様。顔写真もネットに保管されている。

当方がネタにした後も、全く反省せずお馬鹿ぶりを発揮していたが、その後も悪さを繰り返してきた結果、全てのプライバシーが引っぱがされたようだ。

twitterで流れを追うのが大変(大畑は都合が悪いツィートは消すから追いきれない部分もある)なので間違っているのかも知れないが、論破されたら別アカウントで罵倒したことがバレて、そこに書かれていることからどこの誰か人物が特定された模様。

ま、わかってたことだけど、馬鹿だねぇ・・・





 

しんぶん赤旗
佐賀県は、来年度から全ての県立高校の新入生を対象にタブレット端末(携帯型の情報端末)を使った教育を開始する計画です。しかし、全生徒が端末を5万円で購入しなければならないため、「高すぎる」と波紋を広げています。(内野健太郎)

確かにそうだろうね。 

「下の娘がこんど高校で、たとえ公立でも制服代や教科書代とお金がかかるぞと思っていたら、タブレット代5万円といううわさ。寝耳に水です」というのは、4人の子どもがいる佐賀市内のパート女性(50)。私立高校だった長男は入学時に約24万円かかりました。「タブレットがないと高校生活が送れないというなら仕方ないと思うけど、家にパソコンがあり、携帯やスマホを持たせた上に、学校でタブレットなんて必要なのかと思ってしまう」と当惑気味です。

「携帯やスマホ」って2台持たせてるのか? というツッコミは別として、スマホ持ってる高校生には配らなくていいだろうw

スマホ代が払えるのにタブレットが買えないってのはウソだから、タブレット買わせればいい。どうしても買いたくなければスマホでやれ。スマホ持っていない子供だけタブレットを無償貸与したらよろしい。これでコストは大幅におちて、知事もスマホを持てない高校生も大満足。

それにしても、5万円以下にならないというと・・・機種はiPadかな?

今日の潮流
ま、いつも通り自分のことは棚に上げて、いかにも私はみのもんたですなw
本来こういうことを書かなきゃならないんだよ。

新聞をはやらせるために、紙面づくりの重要性を説く経営者は多い。党のこだわりや、分析に優れた記事、調査力が伝わる報道は売り上げに直結する といいます▼真実、正確、視点の良さ…。記事についての表記も、客側の意欲や期待感を引き出します。「かつてなかったこと」「目からウロコが落ちた」「共産党に注目が集まっています」などの文字につられること も。もちろん、質が伴わなければ看板倒れですが、われわれはメニューを、ひいてはその店を信用して品定めします

▼いつも発覚している日本共産党の赤旗の虚偽やミスリードを誘う記事は、読者と党との信頼関係を根底から崩しています。記事が嘘だった、大げさだった、真実と異なっていた―▼これだけのうそが紙面に並べられては、いくら小木曽が「単なるミス」だと言い張っても納得できる人はいないでしょう。

新聞の顔である記事で何年にもわたって客をだましておきながら、知らぬ振りを決め込んできたのですから▼偽装問題は他の新聞にもひろがりをみせていません。共通点は売れないことだけです。赤旗産業の深刻な実態をうかがわせます。2000年代に相次いだ偽装事件は「食」に注ぐ目をきびしくしま したが、いまだに根は絶たれていません▼赤旗も同様です。偽ることの罪は重く、代償も大きい。点検や対策を強めるとともに、そこに携わる企業 や人には、いつも信頼と安心をやりとりしていることを肝に銘じてもらいたい。 

当blogの常連の中では、篠原常一郎氏くらいしか実物は見たことがないであろう、日本共産党国会議員秘書用経歴書をゲット。これと、健康診断書がマストアイテムのようです。
それにしても、当blogにはいろんなものが送られてくるなwww

写真をクリックしたら拡大します。
議員秘書履歴書1議員秘書履歴書2
普通の履歴書と違って、やっぱ共産党らしいですね。

大衆団体歴の中でも特に民青同盟の加入歴欄があるということは、それだけ民青を重視していることのあらわれだし、権力機関の工作うんぬんは、そんなこと正直に書く馬鹿がいるのかと思ったり・・・

そうだ!今話題の吉良よし子タンは田村智子の秘書していたはずだから、この経歴書を記入して提出しているはずだが、どんな内容だったんだろう?

活動歴はたいしたことないはずだが、けっこう盛ってあったりするかもね・・・もちろん、ブラのことではないw

しんぶん赤旗関西のページに、神戸市長選と佐用町長選の記事。
神戸市長選は、いつものごとく自民党補完勢力として前回でも共闘がどうたらと話題になった樫野タンの足を引っ張る情況なので話題にしにくいが、佐用町長選は、山田健三元南光町長三度目の立候補。すなわち、最後のたたかいになろう。 

共産党首長として大変評判の良かった人だが、市町村合併で南光町が消滅し、人口が少ない地域の首長だったのが災いして過去二回は落選してしまった。しかも一回目より二回目の方が成績が悪かった。

共産党によく見られる4回5回落ちても立候補を続けるような役割は、さすがにさせるわけには行かないだろうからねぇ・・。 当選すると面白いんだが・・・

産経新聞

台風26号による土石流で甚大な被害が出た伊豆大島(東京都大島町)の川島理史(まさふみ)町長が、台風が接近した15日夜に出張先の島根県隠岐の島町で飲酒していた問題で、共産党機関紙「しんぶん赤旗」が沈黙を続けている。

 川島氏は共産党員で、全国で8人いる「共産党首長」の一人。進退論が浮上しているが、政治家の不祥事に厳しい「赤旗」も身内には甘いようだ。 

こんなこと、当blogは何年言い続けてきたか・・・ ついでに言うと、身内の不祥事どころか、その昔当blogが共産党の二世議員に触れたら、ウィキメディアに掲載されていた共産党二世議員の記述の編集合戦が発生して、共産党側のあまりのしつこさに正確な記述をする側が屈服させられてしまったなんてこともあった。

やはり共産党が注目されると、こういう党の不祥事のがドンドン日の目を見るようになるのだろうなぁwww 

この件は、すでにネタにしたのだが、東スポにも記事があったのを見つけたので紹介。

もっとも、支持者から「招致に反対してきたので当然、『なぜそうなったのか?』という素朴な疑問が(共産党に)きているのは事実」(植木氏)。さらに、文言のイケイケ度を弱めたとはいうものの、決議の直後に開かれた招致議連・推進議連の会合では、このところ関心が高まっている国立競技場の改築計画への異論や、かねて反対の意見が表明されているカヌー会場・葛西臨海公園の環境保護についても、まったく言及がなかった。

東スポというと、「東スポだから」なんい言われて、あんまり信頼されていないメディアではあるが、見なければならないところは、ちゃんと見ているね。 

【ロシアの社会主義運動−8】

 憲法制定会議のことは、トロツキーの回想でも非常に軽く扱われる程度のもので、今更これを以てレーニンの非民主性を云々することは、小生にとっては軽蔑の対象に過ぎません。そんな上部構造のことより、もっと恐るべき地獄が迫ってきます。経済破綻です。

 

 社会主義革命、共産主義革命と言えば計画経済へ経済システムを変えるというイメージがあります。合理的で理性的で無駄のない計画経済は、無政府性を伴い、非合理な市場経済よりも優れていると考えられていました。この考え自身がいかに非合理かは、色々と論じられていることですが、ともかくもそういう方向が社会主義・共産主義だと考えられていたのは確かです。但し、私見ですが、革命直後のレーニンは全般的な計画経済に進める条件があるとは考えていなかったと思います。だが、戦争で荒廃したロシア革命直後の状況は、市場経済の条件があったともいえないようです。工場も交通もボロボロで、工業製品は量も質も購買されるに値するものではありませんでした。農民には「市場原理では」農産物を売る理由がありませんでした。新政府の貨幣には信用がなく、機能しませんでした。このままでは都市の労働者は餓死します。とはいえ、先に見たように農村も人手不足などで疲弊していました。レーニンは、そのような状況で急進的な「共産主義的」政策を取らざるを得ませんでした。都市の労働者のために食糧を農村から強奪する「計画」を立て、武力でもって実行することになりました。極端な話「都市の労働者を殺すか、農村の農民を殺すか」という選択で、後者を殺すことを選択したのです。悪名高い食糧調達は次の年の収穫のための種もみさえ強奪するという凄まじさで、供出しようにもそれさえない農民は「みせしめのために」富農として処刑されるありさまでした。戦時共産主義として知られる、内戦期のレーニンの急進的な政策の背景には、このような荒廃がありました。今回は細かくは触れませんが、ソビエト革命政権が行なった外資へのデフォルト宣言、対ドイツ戦争離脱などで英仏は激怒し、特にイギリスは革命への干渉戦争を引き起こすという困難もありました。それにとどまらず、日本などもソビエト圧殺に加担していました。一方、レーニンはこの戦時共産主義を激烈に進めることで共産主義に至ると考えていた節がありました。

 

 さて、農民の味方たらんとしていた社会革命党左派はレーニンの農民殺し政策に激怒し、一部はレーニンの殺害を決意しました。諸説ありますが、筋金入りのテロリストにして革命家として名高いファニー・カプランは農民への苛斂誅求が始まった一九一八年八月にレーニンを狙撃します。レーニンは一命をとりとめますが、この時の傷と、苛斂誅求政策の精神的負担により、五四歳の若さで逝去することになりました。また、この事件により連立政権を支えていた社会革命党左派も弾圧され、実質壊滅します。このようにして、ボリシェヴィキ独裁が起こります。

 

 レーニンの革命は農民殺しを引き起こしただけでなく、ボリシェヴィキ独裁以降、労働者の反発が高まります。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」。ロシア革命の精華とまで謳われた、クロンシュタットの労働者は「ボリシェヴィキのないソビエトを!」と叫び、決起します。この決起は、「命令に背いた将兵はその場で処刑する」という命令が発された軍隊によって鎮圧されます。軍隊にもクロンシュタットへの同情心が高まっていました。

 

 何かここまで書いていたら、どうしてソビエトが維持できたのか不思議なほどです。しかし、結局のところ、ロシアの農民は外国や旧体制を代表する反革命軍に支持を与えませんでした。結局のところ、農民は外国人を信用できず、旧体制の残酷さを知っているので、「それでもなお」ボリシェヴィキのほうを消極的でしょうが支持しました。そして、レーニンは内戦に勝利しつつあった段階で、農民に譲歩しました。ロシアの工業も復活しつつあると見込んだ状況で、市場経済の部分的復活を図りました。いわゆるネップが発動されたのです。

(続)

NEWSポストセブン
護憲で知られる日本共産党 1946年当時は憲法九条に反対した
という、共産党史掘り起こし記事。趣味者には、「そんな〜の〜じょおしき〜パッパパラリラ」なのだけど、共産党に全く関心のない人には新鮮なのだろうな・・・

それにしても以前から何度も言ってきたが、共産党が注目されると、触れられたくない過去がドンドン暴れるんですよねぇw

日本共産党が注目を集めている。志位和夫委員長はテレビのインタビュー番組に引っ張りだこだし、政治討論番組は共産党抜きに番組が成立しないくらいの勢いだ。

これがなければ、こんな過去をほじくり返されることもなかった。もっと話題を集めたら、スパイ査問事件とか、スパイが党を率いていた情けない歴史もほじくり返されることになるだろうなぁ・・・。

山月記そしてほじくり返された歴史に、党員は「デマを言うな」くらいの反応しかできず、党員の情けない態度に失望してまた支持者が離れていく。


 

大島町発
今回の災害で袋だたきの感のある大島町長、 川島理史氏が近く共産党を離党するかも知れない。
今回の震災対応が党で問題になって追い出されるとかではなく、以前から少なくない川島氏の支持者たちが「共産党を離党して欲しい」と求めているため。

支持者の一人曰く「川島町長はもともと共産党だけでなくもっと広範な支持が欲しかった。だから都議選に出た時も党公認ではなく推薦で出たりもした。だから町長の支持者には共産党もいるが、そうでない人も多い。ところが町長は支持するが共産党をよく思わない支持者の『離党して欲しい』の声が近年特に大きくなってきくていた」ということで、共産党員か、町長かどちらを選ぶかという選択をしなければならない時が迫ってきていたという。

 情報提供者は「たぶん川島さんは党員より町長を選ぶだろう。でも今回の件でどうなるか見えなくなった」とのことですた。

週刊文春
絶好調共産党アイドル吉良よし子議員の前途ということでアイドル的な人気があるのを報道しているのだが、

「彼女が獲得した票は、全共産党員数の倍以上。党活動で目立った実績もなく、都議選の落選歴もある彼女のような人物を、東京で擁立するのは異例です

共産党員の倍以上の得票って・・・東京選挙区なのに何を書いているのかというのはポカとしても、こう言うの実は異例でも何でもないんですよね。共産党の党活動で目立った実績どころか、党活動は後退の一方ですからw

「共産党は党内序列が物をいい、秘書が議員を叱るなんてこともよくある。人気者だけに、やっかみも含めた党内からの“監視”の目が厳しくなるでしょう」(前出・記者)
ブラック企業追及のアイドルは、共産党の小泉進次郎か、それとも杉村太蔵か。 

 最後の文章はいいねw。それと党内監視はないとは言いませんが、はっきり言って近年は緩いですね。だから赤旗日刊紙でもよく中核とか対立党派の人間を出すポカを続けているわけでw 

新潮は、他紙も追う、3ページの大特集
大土石流」死亡不明46名の悲劇は人災か 「赤旗」が書かなかった町長の不作為 出張先で酔っていた伊豆大島「共産党町長」ということで川島町長のリスク対処能力に根本的な疑問を呈するもので
町議時代に町長の出張が多いと批判していたが自分もたくさん出張している。
災害発生当日は町長も副町長も出張していたという年に1回あるかないかという状態だった。
飛行機が飛ばないので、仕方なく予定を消化しようとイベントに参加していた

とか、さんざんな書かれようである。

中でも、これが代表的な批判だろう。小坂満大島町議(無所属)の批判
共産党は、結果を求めず人の批判ばかりする。聞いて心地よいことは言うが結果が伴わない」川島さんが町長になってからの二年半を見ているとそれがよく出てますよ。とにかく決断をしない。いつも議会で『議論に値する』『検討の余地がある』とか、そんな言葉で逃げてばかりでした。こうした点も今回、避難勧告や指示を出せなかった理由のひとつでしょう」

しんぶん赤旗
いったい赤旗は、いつになったら一般新聞より高いのにウソ書く新聞から脱却するのだろうw?
ということで、またしても輸出戻し税

一部の大企業は取引の実態として、中小企業や下請けに対して納品の際に「消費税分を安くしろ」などと単価を買いたたく場合があります。国内販売が中心であれば、下請けに払わなかった消費税分も販売価格に転嫁され、その分を懐に入れることができます。輸出大企業の場合は、下請けに「払わなかった」消費税分まで税務署から還付されます。問題は、消費税の還付制度そのものにあるのではなく、大企業が下請けに消費税分を押し付けていることにあります。

 大企業が下請けに消費税分を押し付けている場合、この「輸出戻し税」は下請けが身銭を切って負担した税金です。大企業が消費税を下請けにきちんと払うようにさせ、下請けの負担をなくすことが重要です。 

笑えるポイントは記事下の図。
大企業はそもそも消費税を負担していないと消費税反対記事で書いておきながら、輸出戻し税の記事をかくとあら不思議!大企業は消費税負担しているみたいですよwww
 
というわけで
1320333436244s 

togetter
日本共産党選出の京都府議会議員西脇いく子が、清水建設を誹謗するデマを拡散して袋だたきにあっている。

ったく・・・石谷泰子堺市議のデマ拡散であれほど大騒ぎしたのに、共産党の地方議員は 学習能力がないのかね?

おそらく視察先でわけの分からんことを吹く奴がいてデマを信じたんだろうが、こんなことビジネスの世界をチラ見していたら、まずおかしいと思うのが普通。ていうかね、清水がどれほどデカイ会社か知らないのだろうな。

東京オリンピックの仕事を受けた程度で人が足りなくなるような、小さな会社じゃありません。

【ロシアの社会主義運動−7】

 まず、戦争に突入して数年、ロシアでは経済が破たん寸前になっていました。とはいえ、最初に取られた手段は、銀行の国有化、企業のシンジケート化、要は後に社会主義化=国有化=計画経済と考えられる方策の一歩を踏み出すに過ぎませんでした。「記帳と統制」という言葉で知られる方策は、当初緩いものでしたが、しかし、そんなことでは破綻しつつある経済状況を好転させることは出来ませんでした。何しろ、工場は麻痺しており、農村に提供できるものがなければ、市場経済が残った中で、どうして農村は都市に食糧を供給するのでしょうか? この悲劇は後でまた触れます。

 

 次に、平和についてドイツとの講和をレーニンは求めますが、ボリシェヴィキ内部にもそれに反対する人々がいました。成功した革命を、ドイツの軍が蹴散らすのではとレーニンの反対者が考えるのも理由のないことではありません。ドイツの力を利用したフランスのティエールに蹴散らされたパリ・コミューンのことを思った革命家もいたと思います。ドイツは脆弱な革命政権の足許を見、結局はソビエト・ロシアにとって不利な講和条件を突き付けますが、情勢が煮詰まり、戦争継続はソビエトにとってあり得ない選択であると判断したレーニンは講和条約を飲みます。多くの領土がドイツのものとなり、多額の賠償金を払う約束をし、そして多くの地域がロシアから独立しました。レーニンがドイツの用意した封印列車で帰国した経緯もあり、レーニンは売国奴であるという憤りは他党派に湧いてきても不思議ではありません。

 

 また、土地の布告は社会革命党(左派)を丸のみしましたが、当の農民は「良きツァー、良き地主がいてこそ!」という意識が強く、革命政府の布告は「自分たちの好きなように、とはふざけている」ようにしか思えませんでした。要はボリシェヴィキ主導のソビエトは得体の知れない存在として農民に立ち現れたのです。

 

 問題はそれだけに留まりません。二月革命のとき、ロシアの近代化のために憲法を制定することが定められ、そのための会議が近い将来開かれることになっていました。会議のためには、議員が必要で、そのための選挙が行われるはずでした。選挙のためには、選挙人名簿が必要でしたが、この名簿が作られたのは十月革命以前のことであり、「ボリシェヴィキ?何それ?」と多くの人、特に農民が思っていた時に作られたものでした。だから、レーニンは名簿の再作成後に選挙を行なうべきだと訴えましたが、地方は「早く選挙をしろ」という声で満ちており、レーニンとしても無視できないほどでした。そして、「名簿通り」の結果が出たら、「ボリシェヴィキは少数派」という「現実」を突き付け、あわよくばレーニンを殺してしまおうという、政治勢力もいました。十月革命で閣僚が逮捕された党派であるカデットなどのことです。きわめて流動的な、革命的情勢では、結局のところ暴力がモノを言います。憲法制定会議は十月革命から間なしの一九一八年一月五日に開かれます。議長の選挙において予想通り右派が圧勝しました。レーニンを亡きものにしようとした連中が、大手を振って権力者の位置に復活したのです。革命的ソビエトが反革命的議会に道を譲ることによって革命の成果が消し飛ぶことを恐れたレーニンは、議場を後にし、宣言文をしたためます。

 

「立憲議会の反革命多数派は、旧来の議会の例をまねるばかりで、議会と労農政府の対立を明らかに目指している。我々は人民の敵が犯しつつある罪を一瞬たりとも分かつことを望まぬが故に、この議会から立ち去るものである」

 

 さて、他の左派も立ち去ろうとするとレーニンは叫びます。「何をするのですか。諸君が宣言文の朗読に立ち会って、一まとめに退場すれば、警備の兵士や水兵がいきり立って、社会革命党とメンシェヴィキを皆殺しにしてしまうことが分からないのですか。」全くの法措定暴力の段階では拳や銃弾がモノを言うようです。その場にいた議員の中には、レーニンによってメンシェヴィキの議員は生命を永らえたと言うものもいました。

 

 こうして権威も力も失った憲法制定会議は、このようにして開かれた翌日の午前四時半に終了しました。このことをもって、レーニンを反民主主義と批判する傾向があります。しかし、レーニンはこれに到る前に、様々な判断を下しました。それが拒否されて、このような事態になりました。また、憲法制定会議が大いに変わった大衆の意識を反映していないのに、民主主義の名でレーニンを批判するのはどうでしょうか。さらに言うと、ケレンスキーらは会議に合わせて反革命武装蜂起をやろうとしていたのです。革命とは、特にロシア革命とはそういう場所なのでした。憲法制定会議のことをもって、レーニンを批判するのは極めて理不尽で不当なことだと小生は思います。

(続)

 

以前から申し出はあったのだけど、最近特に当blogへの寄付の申し出が増えている。

ぼくちんとしては、アフィリエイトで経費を相殺できればラッキーw程度に思っているのだけど、現実には相殺できていないわけで、それで助けてやろうと思う方が増えたのだろう。

寄付を受けたことがないわけではない。東京オフの時に騙し討ちみたいな形wで寄付をいただいたこともある。しかし恒常的に寄付を受けると言うのはどうなんだろうかと迷いもあるのだ。

当blogが純粋に商売としてやるなら、寄付はいくらでもウエルカムにするが、こういうのって、儲けてもダメな気もするんです。

さて、どうしたものか・・・皆さんのご意見をお聞かせ下さい<(_ _)> 

ネタ切れになるまで取っておこうとしていたネタ。
宮本たけし先生のFacebookが、ただいま大荒れ中。というのは、日本共産党が東京オリンピックに反対していたのに、開催決定後オリンピックを成功させよう決議に賛成したことに対する党の説明文書をアッブしたことから、賛否両論が大量に書き込まれているわけ。

コメントが大量で、いつものようにスナップショットを撮ることができるレベルではないので、facebookアカウントを持っている人は見に行って下さい。

ついでにたけし先生に言っておくと、こういう微妙な問題での反論に対処できるだけの能力がないんだから。だんまりしてりゃよかったのに・・・たけし先生は、昔からネットの活用には積極的で10年ほど前には実名でにちゃんねるで書いて、その論拠の稚拙さをさんざ叩かれて、にちゃん撤退後は当blogの愛情あふれる指導wになんら従おうとせず、学習しないことから論争に巻き込まれた。

すこしは当blogを言うことを聞いて学習すればよかったのにね・・・

で、問題となった党文書は 続きを読む

理由・某マスメディアが連絡を取りたがっており、つないで欲しいと依頼があったため。
連絡先は
busayo_dic@gmail.com


26. 神 2013年10月19日 13:00

川島町長が優しい方?

ふざけるな。

人妻を寝とって結婚した挙げ句、連れ子は結婚の邪魔になるから施設にいれてくれと頼んで、自分の家族だけが幸せならそれでよい様な川島理史なんか、そとづらがいいだけで、内面は人間とは思えない奴。

身内なら皆しっている。

災害の日の出張も飲んで遊んでいた!追及すべし!

 

27. 全てを知ってる人物 2013年10月19日 13:45

夕方から夜中の3時まで連絡がつかない?

さぁて、会合はおわってるよね。

あたし、何していたか全てを知ってるよ。

口ではうまいこと言ってるけど、遊んでたよね、町長さん。
 

28. 人妻 2013年10月19日 13:52

川島町長の奥さんも、凄い人だね。

自分の再婚した子供二人が教師になったりと、旦那は町長だから、お金ががっぽりもらえるから、裕福で嬉しい。ただ、今回は人災が起きちゃったけど、出張でしかたなかったし、家族さえ無事ならいいって身内に話しているよ!


こんなやつらが町長一家だなんて。辞めさせろ。


33. 正義のみかた 2013年10月19日 21:25

伊豆大島は、殆どが親戚関係のあつまり。

中には、仲の悪いひともいるが、何をいってもかばいあう可能性あり。


死者が沢山出ている以上、辞任するべき。

しんぶん赤旗
 避難勧告と視察のニュース。避難勧告は、全人口の1/4になる大規模なもの。これくらいの規模になると果たして収容できるのかちょっと心配。

で共産党議員の視察だが、都議二人は東京都支給だろうか?本格的な防災対策服だし、笠井もそれなりにちゃんとした作業服を着ているようだ。

0d02af37-sでも吉良氏よし子タンは何を着ているのだろうか?こんな色の作業服なんか、見たことないんだが?

写真を拡大してもよくわからないのだが、青の上着に青のジャンパーらしい。上着もジャンパーも生地は光り方からしてレーヨンかもしれない。


さすが写真集が出るだけのことはありますなw


 

【ロシアの社会主義運動−6】

 十月革命は平和な様相のクーデターでしたが、情勢はむき出しの暴力に支配されていました。戦争を遂行するだけの機械になっていた臨時政府は既に退けなければ、労働者、農民、兵士は無駄死にへの道を突き進むだけでした。そして、憲法制定さえされていない状況では、暴力でもって臨時政府を除去するしかありませんでした。小生は、レーニンのクーデターには法律を超えた意味での合法性というか、正当性を有していたと思います。国家システムの正統性と正当性は別物です。臨時政府は皇帝を追放した時点で正統性を有しましたが、その無力さによって正当性は失っていたと思います。「クーデターだからロシアの十月革命は駄目だった」という考えが一部で流布していますが、それは「正統性」のみをみて、「正当性」を考えていないと小生は思います。しかし、「正統性」の呪縛は同時代においては現在よりも強いものだったと思います。ちなみに、ボリシェヴィキの中でも、指導部メンバーであるカーメネフとジノヴィエフは武装蜂起の計画を外部に暴露するなど、強い反対がありました。それでも彼らを除名などで強く処分することは出来ませんでした。様々なものがギリギリの蜂起でした。「一日遅ければ遅すぎる、一日早ければ早すぎる」とレーニンは書き残しています。「待てば死ぬ」とも。遅ければ革命阻止の勢力が態勢を立て直すし、早ければ軍事的な準備という意味での機は熟していない、と。ちなみに労働者・兵士の多くは蜂起を心待ちにしていました。それでも機会をしっかり見極めなければならないのです。暴力革命において、司令部=党がないのは、不成功を約束することだと小生は思います。

 

 さて。レーニンの蜂起が成功した後、ケレンスキーは逃亡、臨時政府の閣僚は逮捕されました。臨時政府にメンバーを派遣していたメンシェヴィキ、社会革命党(右派)は激怒します。ボリシェヴィキに協力的であった社会革命党(左派)もボリシェヴィキと距離を置きます。結局のところ、ボリシェヴィキは広い意味での革命的党派を結集することは出来ませんでした。そこで、ボリシェヴィキは、自らを中心に、ボリシェヴィキに好意的な社会革命党左派の一部で新政府を作らざるを得ませんでした。一般的に労働者階級は断固とした非妥協的な姿勢を見せるものを好みますが、非妥協性は往々にして周辺に敵を作ります。ボリシェヴィキの革命性は、曖昧なものを敵とし、その曖昧なものに飲み込まれていたメンシェヴィキを敵規定せざるを得なかったんだと小生は思います。そして、革命が悲劇的なものであることを示す、余りにも苛烈で残酷な真実は、カール・シュミットの『政治的なものの概念』が示した友−敵理論を極限で示すことになるでしょう。この理論が示すところは、要は「国家の敵は殺せ」ということです。これのむき出しとなる例が、革命と戦争だと思います。そうならないための安全装置を、人類は生み出してきましたが、その装置が壊れるときはあるのです。

 

 ボリシェヴィキ+少しの社会革命党で組織されたレーニンの政府。レーニンには権力奪取に酔いしれている暇はありませんでした。「パンと平和と土地を!」という民衆の切実な要求に答える必要がありました。平和はドイツとの無条件講和、土地は社会革命党の草案に基づいて農村ソビエトに一任します。パンについてはこの段階では特段問題になりませんでした。しかし、これらの課題は様々な軋轢を生み、そしてロシアを破滅の淵に追い込み、そしてレーニンは危機打開のために多くの人命を落とす選択を突き付けることになります。

(続)

今日の潮流
幼稚園が移転、古い園舎が取り壊しになるので「園舎とのお別れ会」をしたそうだが

それにしても納得できません。保育園の移転が決まったあと親や園の職員、地域の人たちが「この場所にも保育園を残してほしい」と声をあげました。しかし市は「財政難」などを理由に認めませんでした。8千人以上の署名を集めて議会に請願しても自民、公明、民主の各党は反対しました▼あるお母さんは見学会で「今は悲しみよりも怒りの気持ちの方が強い」と話していました。希望しても保育園に入れない待機児童が今も多数いるのにせっかくの保育園をつぶしてしまうなんて―。こんな政治は変えていきたいものです。 

取り壊される園舎が建築史的にとても貴重なものだとか、観光資源として使えそうだとか言うなら、園舎を取り壊すな、再活用せよなんて話はよく出てくることだと思うが、移転が決まってから何を言いだすことやら・・・だったら最初から移転に反対したらいいのに。

-19

 

年収ガイド
これをネタにすると、まちがいなく某自称多重債務者がいつものパターンのコメントをつけてきそうなのだがw、 共産党議員の公開年収は、ほとんど横並び状態の1600万程度。

議員はたいてい中央委員だし、常幹も何人かいるが、共産党からの給与所得はないような感じである。

まぁ、この所得から党への寄付が行われるのだろうから実際の所得はもっと少ないし、国会議員じゃなくなったら党からの給与は復活するのだろうが、こういうのって本来党が払うべき給与を国に肩代わりさせていると言えないこともない・・・・ 

【ロシアの社会主義運動−5】

 臨時政府は戦争継続のため、歴戦の英雄であるコルニーロフを7月に臨時政府軍の最高司令官に任命しました。同時に、ケレンスキーは首相に就きました。コルニーロフは7月の労働者蜂起未遂事件などについて、背後にボリシェヴィキが糸を引いていると考え、また、ロシア軍の敗走の背後にもボリシェヴィキの暗躍があると考えました。そして、ソビエトにおいて力を増すボリシェヴィキがこれ以上強くなったら、ロシアは崩壊すると考えました。実直な英雄であるコルニーロフは、二月革命の時に「ロシアのために」ロマノフ二世を逮捕するなどして革命に加担しましたが、革命左派であるボリシェヴィキの増長はロシアを敗戦に追い込むと考えました。ボリシェヴィキら左翼の排除は、ケレンスキーも願いました。そして九月にクーデターは決行されました。しかし。まず、ケレンスキーは自分も排除されるのではないかと恐れをなし、ケレンスキー指揮下の軍隊の輸送に対して鉄道ストを指示したり、ソビエトに依拠した赤衛軍を作ったり、何とも腰の定まらないことをします。コルニーロフの指揮下にあったコサック軍はこれを見てやる気を失い、コルニーロフは逮捕されます。労働者や兵士はこのクーデター未遂を見て、臨時政府を見限り出します。そしてボリシェヴィキは力を蓄えていきます。7月の蜂起失敗後の危機により、レーニンはフィンランドに逃れていましたが、10月には帰国し、邪魔者と化した臨時政府を物理的に排除することを訴えます。

 

 有名な十月革命の直前について、よく「権力の真空」という言葉で説明されます。正式な政府の代表は臨時政府、だが力を持っているのはソビエトのはずだが、その内部は革命派もいれば自由主義者もいる、社会革命党も左派と右派、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ、少数だろうが立憲君主制のカデットや自由主義者。ごった煮でとてもじゃないが意志統一は取れない。誰も本気で政権を握ろうとしているのか疑わしいし、本来自信家のケレンスキーさえも無能力状態。そんな中で、誰が権力を握り運営できるのだろうか、という問いが出た中でレーニンは「いや、ボリシェヴィキは権力を掌握する用意も実力もある」と言い放ちます。この段階では、もう、これまで例えていた「内部」は崩壊しているに等しく、形式と堕していました。後は誰がどのように排除するか、です。合意に基づいた議会的な手段は、9月クーデター未遂の段階で崩壊していました。そして、冬宮襲撃をメルクマールとする、十月革命が起こります。軍は実質崩壊、自由主義者は無力という状態で、力を蓄えたボリシェヴィキがクーデターを決行し、成功させます。この蜂起自身は、「革命」という言葉で想像されるよりもはるかに平和的で流血も少なく、成功しました。エピソードとしては、オペラ歌手のシャリアピンが前夜にオペラを平和に歌っていたことがあります。だが、このクーデターの後に様々な流血の惨事を含む騒動が待っています。

徳島新聞
正直に話してというわけで、被告側は全面的に争っている模様。

 

10月20日発売のFACTA11月号に、そういう記事が出ているそうだ。
 

現職国会議員だと笠井は東大卒として確かに最も妥当だが、志位より年上なのがネック。長期間やることになるだろうから年齢的には小池あたりが妥当で、山下は書記局長昇格決定だから宮本たけしはあり得ないw。残りの選択肢は井上、仁比しかない。

あるいはもっと若手から登用なら宮本徹、大穴で坂井希あたりの世代も考えられるが、 今回幹部会に抜擢はあってもいきなり委員長はないだろうしなぁ

・・・と書いていた直後メール到着音が鳴ってメールを見たら、FACTA記事を書いた方から「参考までに」とゲラが送られてきたw
さすがに発売前の記事のゲラを公開するわけにはいかないのであれなのだけど、 記者さんによれば、要は

・志位ボンがやめるタイミングは、選挙に勝てた今だということ。
・党内派閥である「志位ライン」と「不破。市田ライン」の綱引き(このあたりの根拠は実際に記事を読むべし)

から笠井委員長が最有力であると判断したとのこと、なるほど・・・。

そうそう、FACTAは書店で売っておらず、定期購読しないと読めない。オリンパス事件など取材力に定評があるメディアなので、興味ある人は定期購読して下さい。

【ロシアの社会主義運動−4】

 1914年には愛国心に燃えていた「軍服を着た農民、労働者」も、戦線の膠着や悲惨な戦場に嫌気を増していきます。1917年の二月革命とそれに続くツァーリの退位は、混乱に輪を掛けます。戦線離脱が相次ぎ、ロシアに帰還する兵士が増え、臨時政府の統制は利きません。「ボリシェヴィキ? 何それ?」という感じだった労働者や兵士でしたが、レーニンの「いわくつきの」四月テーゼに対して懐疑的な立場から、戦争継続を訴える臨時政府やそれに支持を与えるソビエトへの不信感を強める中、徐々に労働者や農民はレーニンの四月テーゼやそれに支持を与え出したボリシェヴィキになびいていきます。「パンと自由と平和!」。労働者と兵士の叫び声は強まっていきました。そして、元々メンシェヴィキの立場にあり、レーニンが鉄の規律を訴えた時、「労働者を地区委員会が代表し、地区委員会を委員長が代行し・・・そして党全体を党首が代行する」と、その組織論を鋭く批判したトロツキーが、メンシェヴィキを捨ててボリシェヴィキに就きました。彼に続き、有能な革命家は徐々にボリシェヴィキを支持するようになりました。しかし、そうは言っても、一九一七年の六月ごろまで、ボリシェヴィキは農民の間では言うまでもなく、労働者の間でも少数派にとどまっていました。

 

 さて、徐々に無能っぷりを露呈する臨時政府でしたが、当初は大衆に期待されていました。ロシアを変えてくれる、と。改革派議員として期待されていたケレンスキーはソビエトを代表して入閣、五月には軍事大臣として腕を振るおうとしました。しかし、ロシア軍は崩壊しつつありました。ケレンスキーは、ナポレオンを目標にしたと言われます。さて、あの大ナポレオンだったのか、甥のナポレオンだったのか。いずれにせよ、あらゆる階層全てを代表しようし、束ねようという彼の野望は実現しませんでした。彼が軍を統制出来ない中、ボリシェヴィキは自前の武装を強めていきました。それは、旧皇帝の支持者や新政府の中でボリシェヴィキを快く思っていない部分が、自前の武装を進めていたことと対をなします。繰り返しになりますが、革命的情勢においては、武力は無視してはならない条件であり、道具です。自前の武装は実はなかったケレンスキーは、ボリシェヴィキをはじめとする武装勢力のバランスを利用しようとしました。だが、このような政治家は足許を見られるのが関の山です。

 

 一九一七年七月、都市の労働者と兵士は事態を好転出来ない臨時政府に業を煮やしていました。奴らを排除し、「全ての権力をソビエトに集中すべきだ!」と。諸説ありますが、小生が落ち着いた考えは「レーニンはそのような集中=武装蜂起は時期尚早だ」とレーニンは考えていた、ということです。しかし、暴発に似た武装蜂起は起きてしまいました。ボリシェヴィキはどうしたでしょうか? 何と、彼らの先頭に立ち、自らを弾除けとすることで、鎮圧側の軍隊から暴発した労働者・兵士の部隊を守りました。これは、弾圧を引き受けることでもあります。体を張り、自らの主張を差し置いても、労働者と兵士を守ったボリシェヴィキは、犠牲を払った代償に、尊敬と信頼を獲得しました。……都市部では。(続)

 

しんぶん赤旗
やはり町長批判のニュースは赤旗には載らなかったが、代わりに完璧なウソ旗ニュースが・・・

読者から「大企業は消費税を負担していないといいますが、納税していないのですか」という質問をいただきました。

 大企業は税務署に消費税分を納税しています。しかし負担はしていません。大企業は、価格支配力があるので、消費税をすべて消費者に転嫁することができるからです。


いつもの主張といえばいつもの主張だが、大企業の値引き圧力=大企業は消費税を払わないと誤認させようとするもの。

価格100円で消費税5円の商品の消費税分納入業者に引かせたら、仕入れ価格は100/1.05=約96円で消費税は4円という感じでなるだけで、大企業が消費税を払わないわけではない!そんなことしたら税務署が黙っていない不法行為だよw 

だいたい消費税が無くなったって価格交渉圧力は全く変わらないわけで、言ってることは全く意味がない。いいかげんに気付きましょうね・・・アホじゃないならw

徳島電

扶川事件の震源地、徳島県の共産党支部に、扶川事件に関して「党としての総括」が11月に降りてくる模様。どのようなものになるのか詳細は不明。

busayo_dic推定では、党内でも批判が多かったそうだから、扶川の独走ということで処理するんじゃないかな?そして中央委員会レベルでは、この事件を奇貨として、現在各地で進行中の党機関に対する生活保護関連の家宅捜索・今後の捜査に対する対応マニュアルを整備する・・・ほどの知恵が中央委員会にはあるのだろうかw?

↑このページのトップヘ