1792年4月25日、フランス工兵大尉ルジェ・ド・リールが、「ラ・マルセイエーズ」の原型となる「ライン軍のための軍歌」を完成する。「ラ・マルセイエーズ」とよばれるのは、テュイルリー宮殿襲撃で、王宮奪取に成功したマルセイユ義勇軍が革命歌に採用したからである。
 この曲がフランス共和国国歌となっていく過程については、以下のDormeur氏のサイトに詳しい。

▽ラ・マルセイエーズ −フランス共和国国歌
http://meta-metaphysica.net/lit/lamars.html

 同じ1792年4月25日の午後3時、フランス大革命を象徴するにふさわしい、もう一つの出来事があった。パリのグレーヴ広場で、ギロチンによる初の公開処刑が執行される。

 このギロチンは、最初、不評だったようである。公開処刑に集まった人々は「何も見えない!」「十字形絞首台[ジベ]を返せ」とブーイングの嵐だったという。
 ギロチンが登場する前の処刑は、見世物と化した華々しい身体刑の時代だった。神をののしる言辞を弄したものは、その舌を斬り落とすか突き刺されるかしたのちに、絞首刑に。不倫不浄な行いをした者は火あぶりの刑に。より罪の重いものの場合には、手足を断ち切った上、生きたまま車責めの刑に。残酷さで名高いのは、1757年、国王ルイ14世を殺害したダミヤンの場合だろう。ダミヤンに下された有罪犯罪判決は次のようなものである。

 「……護送車にてグレーヴ広場へはこびこまれたのち、そこへ設置される処刑台のうえで、胸、腕、腿、脹らはぎを灼熱したやっとこで懲らしめ、その右手は、国王殺害を犯したさいの短刀を握らせたまま、硫黄の火で焼かれるべし」
 「ついで、やっとこで懲らしめた箇所へ、溶かした鉛、煮えたぎる油、焼けつく松脂、蝋と硫黄との溶解物を浴びせかけ、さらに、体は四頭の馬に四裂きにさせたうえ、手足と体は焼き尽くして、その灰はまき散らすべし」

 実際には、刑の執行は手間取り、馬四頭ではなく、六頭の馬に引かせても体が裂けなかったので、刀で断ち切らねばならなかった。

 フランス大革命によって、このような残虐な身体刑は禁止される。このような残酷な身体刑は、ローマ人を統治した怪物的な帝王たちだけに似つかわしい。新しいフランスの課す刑罰については「自由・平等・博愛」の崇高な理念に照らしたものでなければならないだろう。そこで、成立したのが次の次の名高い法令、「すべての死刑囚は斬首されるものなり」(「フランス刑法典第三条」1791年)である。

 死刑の方法が斬首に定められたのには、以下の三つの意義がこめられていた。

 ■万人にとって平等の死刑−−犯罪人の位階身分にかかわらず、同種の罪は同種の罰によって処罰されなければならない。

 ■長時間におよぶ、残酷な身体刑に訴えないこと−−死刑は苦痛を与えずに、瞬間的なものでなければならないと。

 ■これまでは貴族だけの「特権」だった斬首刑を、全ての階層に広げること−−、刑罰を万人にとって平等なものになることで、犯罪者の遺族の名誉の毀損も最小限にとどめられるだろう。

 以上のような「人道的」見地に立つ原則に基づいて、「機械手段の作用」による死刑の執行を議会で提言したのが、三部会議員で医学者でもあったジョゼフ・ギヨタン(1738−1814)である。外科医のアントワヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにするなどの改良が加えられた。

 デュマの小説によると、錠前蒐集が趣味で機械工作を得意としたルイ16世は、ギヨタンの新発明の最終設計図面を見て、「刃は三日月より草刈鎌状のほうがよい」と助言して、自らペンを取って、図面を描き加えたという。その切れ味は半年後、国王自身の首で証明されることになった。このエピソードの真偽のほどはわからない。

 この装置は、はじめは設計者ルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」「ルイゾン(Louison)」とよばれたが、議会で大いに喧伝したギヨタンのほうが有名になり、「ギヨティーヌ(Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンとは、そのドイツ語読みである。

 フーコーはこのようにいっている。

 「断頭台「ギョティーヌ」、つつましやかで速やかな死刑をおこなうその装置は、たしかにフランスでは合法的な死刑を旨とする新しい倫理を印づけるものだった。だが、大革命のせいで、ただちにその装置は、芝居がかった大規模なお祭りの姿をおびさせられた。」(M.フーコー『監獄の誕生』新潮社)

 公開処刑に民衆は熱狂したばかりでない。ギロチンはフランス社交界のモード(流行)になる。女達は金や銀のギロチンをイヤリングにして身につけた。玩具のギロチンは子供の遊び道具になる。ジロンド派のサロンでは、食後のデザートに、小さな木製のギロチンに、政敵ジャコバン派のロベスピエールやダントンに似せた人形がテーブルに饗された。斬首された人形の首から流れ出した赤い液体に、女たちがハンカチを浸す、……赤い液体の正体は甘いリキュールで、デザートを頂くための革命的な趣向である。

 公開処刑の後には、斬首された首は見せしめとしてさらし首に処せられた。しかし生首はすぐに腐敗してしまう。革命政府は、王家に仕えた蝋人形師マダム・タッソー(1760−1850)をパリに呼び戻す。彼女はかつて仕えたルイ16世やマリー・アントワネットの生首からデスマスクを取り、精巧な蝋人形を制作した。革命の混乱が終わった後、イギリスに渡った彼女のコレクションがもとになったのが、ロンドンの観光名所「マダム・タッソーの蝋人形館」である。

 1793年3月から1794年1月の間、パリの革命裁判所が下した判決は381名。しかし1793年6月2日、ジロンド党が国外追放されて、ジャコバン党が政権を掌握、新憲法を成立させて恐怖政治を始める 1794年6月8日から7月31日のわずか2ヶ月の間に死刑判決は1370名に及ぶ。

 さて、最初に戻ろう。

 初めてギロチンが死刑執行に用いられた4月25日の夜、パリを遠く離れたアルザスでは、ルジェ・ド・リール大尉が、夜会を抜け出して、ヴァイオリンを手に新しい革命歌の作詞作曲に取りかかっていた。民衆の間で流行する革命歌が粗野で品性に欠け、軍隊で演奏するのにふさわしくないというのが作詞作曲を依頼された理由だった。

 「神聖な祖国愛よ、我らの懲罰の手を導き、支えたまえ!
  自由よ、愛しき自由よ、
  君の擁護者とともに闘いたまえ!」(『ラ・マルセイエーズ』)

 ギヨタンの断頭台も、マダム・タッソーの蝋模型も、「神聖な祖国愛」による「懲罰の手を導き支えたま」う百科全書的な科学の時代の申し子だった。蝋人形の技術も、医学用の人体模型、特に解剖学の教材として作られた模型をそのルーツにしているのである。

 自由(リベルテ)、平等(エガリテ)、友愛(フラテルニテ)。師のエンゲルスに論文の全面書き直しを命じられた若きカウツキーを困惑させた、最も革命的であるがゆえに恐怖政治に走らざるをえなかったジャコバン派の伝統。資本制と市民社会を超克しようとした社会主義の試みも挫折も、実はフランス革命の時点ですでに始まっている。フーコーはある場所でこう問いかけている。

 「すべての人々が受け入れねばならないような、すべての人が従わねばならないような社会モデルの探求は、実は破滅しかもたらさないのではないだろうか?」

 ギロチンは1976年まで現役として活躍して、1981年9月に死刑が廃止されてからは、その歴史的役割を終えた。しかし人類が発明した最大の大量殺戮兵器は、国家というこのシステムそのものである。国家をマダム・タッソーの「恐怖の館」の如き博物館に送り込むまでは、「ギロチンの日」も過去のものではないだろう。

【参考文献】
『監獄の誕生』M.フーコー (新潮社)
『フーコー ―知と権力』 桜井 哲夫 (講談社)
『フランス革命に於ける階級対立』カウツキー (岩波文庫)ほか

【参考リンク】
▽フランス革命大解剖
http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/
▽ギロチン(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%B3
▽「外科学の口絵」
(ディドロ、ダランベール編『百科全書』パリ1751−1772)
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/michel/13/index13.html
▽ボローニャ大学解剖学博物館
http://www.biocfarm.unibo.it/museocere/menu.htm
▽ロンドン観光局
http://www.londontouristboard.com/static/jp/