1965年4月24日、べ平連発足。

 作家・小田実らが呼びかけた「ベトナムに平和を!」の清水谷公園から新橋土橋までのデモに、1500名が参加した。「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」が発足する。(66年10月16日「ベトナムに平和を!市民連合」に名称変更)

▽吉川勇一氏「ベ平連始末記」
http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin-Beheiren-shimatuki.htm

清水谷公園はここ
新橋土橋はここ


 1960年代に、べ平連が果たした役割は、決して小さなものではない。「市民」の自由参加という運動方式を打ちだして、その後の「市民運動」の原型をつくありあげたばかりではない。全共闘運動の昂揚も、ベ平連の登場なくしては、ありえなかっただろう。

 ベ平連の思想とはどんなものだったろうか。
 まず、小田実氏の提唱した「被害者=加害者」の論理である。ヴェトナム戦争の過程にあって、日本人民は「被害者」であると同時に、ヴェトナム人民には「加害者」でもあるという小田氏の指摘は、従来の反戦平和運動の偽善性をつくものだった。「日本人」は、豊かな戦後社会の繁栄のなかに、ふつうの「市民」でさえも、ヴェトナム戦争に基地を提供し、軍需産業を復活させる「加害者」に加わっている自分自身を発見したのである。この悪しき「被害者=加害者」のメカニズムを断ち切る「国家を超える市民」の論理は、新左翼系の第三世界革命論や入管闘争=反差別闘争へと拡大されていくだろう。

 いまひとつは、鶴見俊輔氏らの「市民的不服従」−非暴力直接行動の論理である。鶴見氏の呼びかけた「非暴力直接行動委員会」は、北爆が行われたら直ちにアメリカ大使館に無届けでも行動を起こそうと提起した。近年、イラク反戦運動のなかで、「非暴力とは警察に協力することだ」という曲解・歪曲する傾向が一部に見られたが、べ平連においては逮捕も辞さず無届デモを貫徹する直接行動として位置づけられていたことは、忘れるべきではない。

 最後に、その自由な組織形態である。べ平連が綱領や規約のない組織であったことはよく知られている。「オレは共闘だ」と本人が思うことのみが、メンバーの「加入」の唯一の要件とする組織体だった。その自由で柔軟なスタイルが、「戦争を知らない子供たち」の世代に受け入れられる。

 べ平連の「市民」運動のスタイルは、古典的な「市民的権利と義務の自覚」というよりは、もっと広くて砕けたものだった。それは、職業・性・イデオロギーなどにこだわらない、「人間らしさ」に根ざした運動だった。

 その背景には、第二次大戦後の経済成長のなかで、先進諸国の政治政党や労働運動が、経済的福祉を獲得し分配するだけの利権的な圧力組織に変質してしまったことがあげられるだろう。ベ平連は「資本主義−社会主義」「左翼−右翼」「保守−革新」という枠組からはみだした、あるいははじき飛ばされた「市民」に、自分たちの心情・要求をストレートに表現できる運動のスタイルをもたらしたのである。

 べ平連が今も記憶に残るのは、アメリカの脱走兵支援運動だろう。脱走兵支援運動は、アメリカのCIAとソ連のKGBの諜報戦の舞台でもあった。アメリカはスパイを使って脱走ルートの妨害と破壊を仕掛けてきたし、初めは協力的だったソ連も、最後には将校または原潜の乗組員以外は受け入れないと通告してきたという。政治的に効果のある宣伝か、軍事的な極秘情報に役立たなければ手を貸さないというのだ。

 ソ連でもKGBのスパイでも、利用できるものは何でも利用しようとしたこと自体は、責められるべきではない。当時のベ平連事務局長・吉川勇一氏も憤慨して語るように、ソ連というのは、国際連帯とも人道主義とも関係のない、ほんとうにひどい国家だった。しかし本当に問われなくてならないのは、新しい運動をめざしたはずのベ平連も、「ソ連=社会主義=平和勢力」という幻想や願望から自由でなかったということだろう。

 さりとて、ベ平連を人材リクルートの「養成機関」としておきながら、その「市民主義」に反撥していた全共闘や新左翼運動は、どうなっただろうか。同じように袋小路に陥ってしまったといってよい。「連帯を求めて孤立を恐れず」に、展望なき武装闘争や、凄惨な党派戦争を繰り広げていったのである。

 『〈民主〉と〈愛国〉』の著者・小熊英二氏は、『SENKI』のインタビューに答えてこういっている。

 「全共闘や新左翼のマイナス点の一つは、やはり年長者を切ったことだと思う。あれをある種のカウンターカルチャー的な運動だったとみなせば、年長者と決別したことで文化的に面白いものが出てきたという評価もありうると思います。しかし一方で、思想面や運動面では、実りの少ないものになってしまったのではないか。(中略)
 例えば50年代前半の共産党の火炎瓶闘争時代や、内紛やリンチを体験した人間があるていど混じっていたら、ちょっと違っていただろう。(中略)
 いろいろな経験を積んだ年長者が例えば10%ぐらいいて、多様な意見を言っていたら、武装闘争の暴走や内ゲバの激化にはならなかったと思います。
 そういう点からいうと、ベ平連には、そういう年長者がかなりいた。事務局長の吉川勇一のように、活動家としてはベテランで、しかも共産党内紛期にリンチ事件の凄惨さを経験していた人が、裏方をやっていた。」
http://www.bund.org/opinion/1111-4.htm


 評判の悪い全共闘世代ではあるが、定年後のセカンドライフには、またご奉公の出番もあるというものではないだろうか。「武装闘争の暴走」や「内ゲバ」の体験だって、何かの役には立つだろう。

 べ平連の運動のなかで、本当に評価しなくてならないのは、1965年9月に始まった毎月第4土曜日の午後の定例デモかもしれない。清水谷公園に集まって新橋の土橋まで行進する定例デモは、73年10月まで97回続けられた。

 「ひとりの思想なんて価値はない。国民の思想にならなくては?
 その考え方に、生きている限り、私は反対したい。」(鶴見俊輔)

 改憲問題が焦眉の課題となっている今、ベ平連の成し遂げたもの、成し遂げられなかったものを見直してみたい。

▽旧「ベ平連」運動の情報ページ
http://www.jca.apc.org/beheiren/

▽吉川勇一の個人ホームページ
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/