1919年4月21日、堺利彦、山川均らが「社会主義研究」を創刊する。

 当時の時代背景はどんなものだったろう。

 第一次世界大戦は「大正の天佑」といわれたように、直接戦火にさらされることのない日本にとって、またとないチャンスだった。戦争でズタズタになったヨーロッパ諸国の生産・輸出能力の減退・喪失を衝いて、日本経済は空前の好景気に沸いた。

 しかし、それに伴い、労働強化や労働時間の延長が日常茶飯事となった。インフレショーンも深刻だった。1912年の物価指数を100とすると、1919 年には238と2倍以上に跳ね上がった。インフレを後追いする賃上げ闘争や、労働時間の短縮を要求する闘いを中心にして、労働争議も一挙に増加する。
     商品輸出額  企業数   労働者数 争議件数 争議参加者
 1913年  6億円   15,000   85万人  47件   2200人
 1919年 20億円   26,000  182万人  497件   63000人

 当時の労働争議の指導・助言・調停の役割を果たしたのが、友愛会だった。友愛会はインテリが主導した組織だったが、大阪では西尾末広(戦後、民社党委員長)ら職工自らが組織した鉄工組合が生まれ、東京では大杉栄らのアナルコ・サンジカリズムの影響のもとに信友会、正進会も結成される。

 1917年のロシア革命の衝撃、労働運動の新たな昂揚、大正デモクラシーの自由な時代風潮の中で、大逆事件以来潜行化していた社会主義者の活動も息を吹き返していく。堺と山川らが「社会主義研究」を創刊したのは、そのような時代のなかであった。

 1922年7月、『社会主義研究』に拠った堺利彦や山川均をはじめとした社会主義者が結集して、非公然の党として日本共産党(「第1次共産党」)を創立するに至るのである。この当時のメンバーは、堺利彦・山川均・荒畑寒村・市川正一・渡辺政之輔・徳田球一・佐野学・鍋山貞親・野坂参三らである。

 1922年「前衛」7・8月合併号に山川が発表した「無産階級運動の方向転換」は、いわゆる「山川イズム」として一世を風靡する。これは階級意識に目覚めた少数の前衛分子が、思想を純化徹底した反面、本隊である労働者階級と大衆から遊離孤立する危険を指摘したうえで、「大衆のなかへ」をスローガンに、大衆が現実当面する利害の闘争に参加努力すべき急務を説いたものである。

 「これらの少数分子がその既に純化徹底した思想を携えて、後方に残された大衆の中に帰らなければならぬ。そして大衆の当面する日常生活の部分的闘争をいっそう重要視し、その要求の実現のためにもっとも誠実に努力すべきである。われわれは無産階級の大衆を動かすことを学ばなければならぬ」(「無産階級運動の方向転換」)

 しかし1923年6月の一斉検挙や苛酷な弾圧と、関東大震災の混乱に乗じた大杉栄の殺害に動揺するなかで、山川らは解党主義を提唱する。これは大衆的基盤をほとんど持たないセクト主義を清算するために、いったん党を解散して各個人が大衆運動の拡大発展につとめ、その基礎の上に党の再建をはかるべきだとするものだった。第1次共産党は1924年3月、正式に解党を決定して、わずか1年8ヶ月の短命を終える。再建のためのビューロー(事務局)数名だけが残された。

 党は徳田球一らを通して、解党決議をコミンテルンに報告。しかしコミンテルンは、解党決議を受けつけずに直ちに党の再建を指令した。徳田球一、渡辺政之輔、市川正一らが中心となって再建運動に向う。日本共産党が再建されたのは、1926年12月4日の山形県五色温泉での党再建大会である。

 この第2次共産党の再建に大きな影響を与えたのが、1924年8月、英独仏の留学から当時最先端のマルクス主義研究の成果を引っさげて帰国した福本和夫である。

 福本は、「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文を発表して、学生たちを中心に熱狂的に支持された。これは山川イズムを合法主義・組合主義・折衷主義と批判して、前衛党組織論による非合法をも辞さぬボルシヴィズム運動論を展開するものだった。そして革命的分子の階級意識を外部から注入しなければならないと「結合の前の分離」という組織論にたって、理論闘争の必要を訴えた。ここには明白にコルシュやルカーチらの影響が認められる。福本イズムの提唱により、共産党再建活動が担われていくことになった。

 堺と山川は、この第2次共産党とは決裂して、荒畑寒村や向坂逸郎らと共に1927年『労農』を創刊。共同戦線党論を展開して、労農派マルクス主義といわれる独自の思想と運動の潮流を形成する。そして日本共産党系の講座派(『日本資本主義発達史講座』執筆者が中心メンバーのためこの名がある)と革命戦略論をめぐって論争になっている。

 労農派は、「日本はすでに不完全ながらブルジョアジ−に権力が渡った資本主義国である」として、社会主義革命を主張。講座派は、「日本は天皇制絶対主義」との観点からブルジョア民主主義革命−社会主義革命の2段階革命論を主張した。この論争は理論的には明治維新をどう位置づけるかという点に集中したため「日本資本主義論争」と呼ばれる。

 こうしてみていくと、共産党の創立を担った堺利彦・山川均、党の再建を決定づけた福本和夫、福本和夫を追放した徳田球一、初期共産党に功績のあった人々は、現在日本共産党主流派とは政治的に対立または転向していった人々で、「公史」から見たらまことに由々しき人物ばかりである。第一次共産党の名誉ある設立メンバーの一人野坂参三も、スパイ事件が発覚して失脚してしまった。

 社会主義運動を担ったのは共産党ばかりでなかったし、その共産党といえども決して「一枚岩の党」ではなく、紆余曲折を経ていたのである。わが宮本顕治名誉議長もすでに高齢であり、「そして誰もいなくなった」ということのないように、初期社会主義運動の軌跡について振り返ってみた。

 *城塚登『社会思想史入門』(有斐閣)、荒畑寒村『反体制を生きて』(新泉社)のほか以下のサイトを参考にさせていただいた。

▽労働運動資料室
http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/index.html

▽「日本社会主義運動史」(「海つばめ」735号〜783号)
http://homepage3.nifty.com/mcg/mcgtext/undousi/undousi.htm

▽法政大学大原社研_向坂文庫
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/bunko-2f.html

▽「日本共産党の創立考(創立前までの流れ)」れんだいこ氏のサイト
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_nagare.htm