1938年4月20日、ベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」が公開される。

 「ナチ・オリンピック」とも称される1936年の大会は、オリンピック史上画期的な意義を持つものだった。聖火リレーもこの大会から始まるのはよく知られている。ナチスはアメリカなどのボイコットを免れるため、ユダヤ人排斥のプラカードを一時的に撤去したり、ユダヤ人をドイツ代表に加えたりしている。

 この大会そのものは、ナチ政権獲得以前から準備されてきたもので、聖火リレーのアイデアも、カール・ディーム博士を中心にするスポーツ関係者のものだった。しかしナチスはこのアイデアも最大限に利用して、壮大な政治プロパガンダとして成功を収める。古代五輪の聖地ギリシャ・オリンピアからベルリンまでの 3000キロの行程を結んだ聖火リレーは、アーリア人が西欧文明の発祥の地である古代ギリシャ人の「直系の子孫」であることを印象づけることが目的だった。

 このベルリン・オリンピックの記録映画が、天才女性監督レニ・リーフェンシュタール(1902年−2003年)による『オリンピア』である。マラソンを中心にした「民族の祭典」、その他の競技の「美の祭典」の二部から成り立ち、20世紀の映画史に残る作品となっている。
 リーフェンシュタールは、ダンサーとしてスタートし「聖山」で女優の道に。一連の山岳映画に出演した後に、「青の光」(1931)で主演・監督をつとめ、ヴェネツィア映画祭銀賞・パリ万国映画祭金賞を受賞する。リーフェンシュタールとヒトラーの出会いは、演説に感銘を受けた彼女が手紙を書き、ヒトラーも「青の光」を見ていたことがきっかけで、ナチスの党大会の記録映画「意志の勝利」(1935)の制作を依頼したことに始まる。

 『オリンピア』の制作中は、宣伝相ゲッベルスが徹底的に妨害工作を行い、映画のタイトルからも彼女の名を削除しようとしたとされている。これはリーフェンシュタール本人の証言に基づいたものである。たしかにナチス政権下では「芸術批評禁止令」のもとに、映画批評も禁止され、作品の出来・不出来を決定するのは党と国家の役割であり、具体的には宣伝相ゲッベルスの専権事項だった。しかしゲッベルスは、この証言に反して、『意志の勝利』に、最高評点の「国民の映画賞」を授けて顕彰するなど、彼女を絶賛してあまりある。

 「この映画は現在の偉大な時代の厳しいリズムを、卓越した芸術性に高めた。それは後進する諸部隊のテンポに打ち震え、その把握の仕方は鋼鉄のように強靭、芸術的情熱の灼熱に満ちた、記念碑的な作品である」(1935年5月1日)

 ゲッベルスの日記に、リーフェンシュタールが登場するくだりがある。そこでも絶賛があるばかりで、非難する表現は見当たらない。(『ゲッベルス』中公新書)。

「1935年8月17日(土)
 リーフェンシュタール女史がオリンピック映画の準備作業について報告して来た。彼女は賢い女だ! 金曜日、放送博覧会開会。私の演説は大喝采。

 1935年8月21日(水)
 オリンピック映画のために150万マルクが承認された。

 1935年8月27日(火)
 ドイツ映画はヴェニスで大成功を収めた。とりわけ党大会映画が。」

 戦後リーフェンシュタールは、この当時を振り返って、「雛を守る親鳥の気持ちよ」と映画評論家・荻昌弘に語っている。

 しかし、『オリンピア』の大クレーン、移動用撮影レール、望遠レンズにいたるまで当時最先端の器材が必要とされた。棒高飛びの決勝戦の夜景のように、より完璧な「絵」を求めて別の晩に映画用に競技を再現したこともあった(沢木耕太郎による)。編集もリーフェンシュタールが誰の手にも委ねず、自分一人の手で行っている。ゲッベルスのことはともかく、総統閣下のお墨付きがあったのは事実である。

 公開とともに世界から絶賛された『オリンピア』だった。リーフェンシュタールは、戦後ナチスに協力したことが理由で投獄される。ナチスの党員ではなかったことが明らかになり、裁判では無罪になったが、その後も彼女に対する批判や中傷は続いた。

 今日では『オリンピア』は映画史上に残る芸術作品として高く評価されている。リーフェンシュタールは、ナチスの政治的要求に妥協せず、完璧な芸術作品としてこの作品を作ろうとしたことは、ヒトラーも熱狂する観客のなかの一人としてしか登場しないあたりに、よく現れている。

 しかし『オリンピア』の若く活力にあふれた筋骨たくましい「身体の美学」こそは、第三帝国の「民族共同体」というユートピアを実現する人間像ではなかったろうか。ヒトラーは「私は、青春なるものは粗野であり、尊大であり、豪胆であり、残忍でなければならない」と語ったことがある。「老いよ、くたばれ。永遠の青春のみがドイツの地にふるさとを見出せる」が大衆扇動のスローガンになったこともある。

 『オリンピア』が見事に描いてみせたナチズムの「身体の美学」と「政治の革命」の結合こそは、政治的公共圏を独占してきた「教養市民」に対する、教養なき労働者大衆の勝利を象徴するものだった。ナチズムはたんなる「反動」でも「反革命」でもなく、戦後社会で一般化する、高福祉・高賃金のもとで大量生産・大衆消費に明け暮れる「労働者」の登場に道を開いたことも忘れてはならない。

 ハーバーマスの「公共性」についての議論は、われわれにとっても重要なものだが、「自律的な市民」の理性的対話による世論形成を強調するあまり、労働者大衆には排他的な「公共領域」のありかたを追認しているにすぎない。現実の労働者とは関わりのない、インテリの脳内でのみ分泌されたエリート主義的な人間像に根拠をおいてきた民主主義やマルクス主義の限界こそが問われるべきだろう。

 リーフェンシュタールは、戦後、アフリカに魅せられ、ヌバ族を撮影した写真集「Nuba(ヌバ)」(1972年)で再び世界的に注目される。71歳のときには、「51歳」と年齢を詐称してダイビングの免許を取得。死の前年、2002年に公開された最後の作品「ワンダー・アンダー・ウォーター原色の海」では、99歳の現役ダイバーとして出演して世界を驚かせた。老いてもくたばることなく、「永遠の青春」を全うしたのは、ナチスではなくリーフェンシュタールだった。


レニ・リーフェンシュタール: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
▽レニ・リーフェンシュタール公式サイト(英語)
http://www.leni-riefenstahl.de/eng/index.html
田野 大輔氏「《労働者》の誕生――ドイツ第三帝国における身体と政治――」
http://www.osaka-ue.ac.jp/zemi/dtano/arbeiter.html