1865年4月14日、アメリカ大統領リンカーン(1861–1865)、狙撃される。翌日死亡。

 リンカーンは、フォード劇場で「われらがアメリカのいとこ Our American Cousin」(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)を観劇中に、南部出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに後頭部を撃たれた。ブースは"Sic semper tyrannis!"(ラテン語「専制者は常にこのように」。ヴァージニア州のモットー"Thus always to tyrants,")と叫んだという。リンカーンは翌15日午前7時21分に死亡が宣告された。歴代大統領で、初めて暗殺された大統領である。

 リンカーンはイリノイ州の州議会議員・弁護士時代から奴隷制の拡張に反対してきた。そのリンカーンが1860年に大統領就任したことで、アメリカ合衆国は真っ二つに分裂することになる。
 奴隷を使った綿花栽培を経済的バックボーンにする南部6州は、連邦からの脱退を宣言、「南部同盟」を結成する。すでに内乱は不可避になっていた。4月に南部同盟軍がサムター砦の連邦軍(北軍)に発砲したのが戦端になり、リンカーンは義勇軍を召集、南部の港の封鎖を命じる。5月には南部同盟加盟の州が11 州に増え、1861年7月21日のヴァージニア州ブル・ランの戦いで南軍が勝利を収める。以後、4年間におよぶ合衆国内乱(南北戦争)の始まりである。リンカーンは歴代史上、戦時立法により大統領に権限を集中して、この戦争を北部の勝利に導く。狙撃事件は南軍の名将リー将軍が降伏してからわずか5日後のことである。

 リンカーンの言葉として、最もよく知られているのは、ゲディスバーグ演説のなかでの次の発言だろう。

 「and that government of the people by the people for the people, shall not perish from the earth.」(……そして人民の人民による人民のための政治を地上から絶滅させないために)

▽ゲディスバーグ演説各国語翻訳
http://www.loc.gov/exhibits/gadd/gtran.html

 日本国憲法にも反映された民主主義を基礎づけるこの有名な発言も、元々はリンカーンのオリジナルでなく、黒人解放活動家のパーカー牧師のものだった。しかし、わが共産党の「国民が主人公」というキャッチフレーズ同様に、一見もっともらしいのだが、「人民の政治」とは具体的に何をさすのだろうか。山形浩生氏の「プロジェクト杉田玄白」によれば、文脈に即せば「人民による人民のための人民の統治」と訳すのが適切だと指摘している。of the peopleは統治権力を持っている側ではなく、統治される側のことを指す。

▽山形浩生氏「プロジェクト杉田玄白」
http://www.genpaku.org/lincoln/lincoln01.html

 では、このサイトの目的に照らして、左翼や社会主義のなかでは、南北戦争の歴史的意義やリンカーンの功績は、どのように受け止められてきたのだろうか。次のマルクスのことばは有名である。

 「一八世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中間階級〔ブルジョアジー〕にたいして出動準備の鐘を打ち鳴らしたように、一九世紀のアメリカの内乱はヨーロッパの労働者階級に対して出動準備の鐘を打ち鳴らした。」(『資本論』序文)
 
 1864年にリンカーンが大統領に再選したとき、マルクスは国際労働者協会(第1インターナショナル)を代表して祝辞を執筆している。十九世紀西欧のほがらかな進歩史観に支えられたマルクスの階級闘争史観にあっては、合衆国内乱−南北戦争とは北部の「いままでに実現された人民自治の最高の形態」と南部の「歴史の年代記に記録された人間の奴隷化の最もいやらしく恥しらずな形態」とのあいだの、非和解的な闘争であり、前者の後者に対する勝利をもって終わるのは歴史的必然だった。そしてリンカーンを「労働者階級の誠実な息子」と呼んでその功績を称えている。

 「北アメリカ合衆国では、奴隷制が共和国の一部を不具にしていた限り、どんな自立的な労働運動も麻痺したままであった。黒人の労働が焼き印を押されているところでは、白人の労働も解放されえない。しかし、奴隷制の死から若返った新しい生命がすぐさま芽生えた。南北戦争の最初の成果は、7マイル長靴のような機関車の速さで、大西洋から太平洋まで、ニューイングランドからカリフォルニアまで広がった8時間運動であった」(『資本論』第1部・第3篇・第8章「労働日」)

▽マルクス『資本論』(TAMO2氏による)
http://members.at.infoseek.co.jp/mypage/kapital/kapital0-0.html

 さらに、マルクスは北部諸州が内乱に勝利し、奴隷制が撤廃されたなかから、合衆国全土に8時間労働運動が広がったことに注目する。「ボルティモア全国労働者大会(1866年8月)は「この国の労働を資本主義的奴隷制から解放するための、現在の第一の大きな必要事項は、アメリカ連邦のすべての州において、 8時間を標準労働日にする法律を施行することである」と宣言した。この合衆国労働者の要求は、翌月にはジュネーブで開かれた国際労働者協会大会で国際的統一要求として宣言されることになる。

 このようなマルクスの評価もあって、南北戦争は奴隷制解放を実現した、リンカーン型民主主義の勝利であると一般に受け取られている。それも間違いではない。しかし同時に、この内乱が北部の工業資本と南部の農業資本、保護貿易制度と自由貿易制度、近代化派と保守派のブルジョア間抗争であり、大西部という植民地をめぐる争奪戦であったことは、今日のアメリカのバックボーンを考えるうえで、忘れてはならないだろう。

 1840−1861年にわたるアメリカ産業革命の勃興は、イギリスの重商主義的伝統にほぼ忠実に、農産物輸出による利益によって財政的にはじめて可能となったものである。そして北部が奴隷制諸州の反乱に勝利を収めたとき、合衆国は初めて一つの大陸にわたる共和国として樹立され、ヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカに進出していくための基礎を築いたのだった。アメリカ独立革命の経験に深く根ざした「フロンティアスピリット」−−自然法(=権利)の定めるところにより、「新世界」はすべてアングロサクソンのものに属するものだ!−−は、20世紀に入るとともに世界に向けて解き放たれていくだろう。これは大予言者ノストラダムスでもない限り、19世紀人マルクスの予想しえなかったことである。

 「アメリカを見つけるのはすばらしかったが、見つからなくて残念に思うほうが、もっとすばらしかったろう」(マーク・トウェイン)

 マーク・トウェインによれば、一般的にベストセラーになるのはリンカーン大統領に関する本で、いつも人気があるのは医者が登場する小説、そしてアメリカ人は犬好きだから、「リンカーンのかかりつけの医者の犬」の話を書いたら必ずベストセラーになるといったものだった。このアイデアに、「そばかすだらけの少年」というアメリカ文学に欠かせない要素(?)を加えた作品が、そのタイトルも「リンカーンのかかりつけの医者の息子の犬」。アシモフ編のアンソロジー『いぬはミステリー』(新潮文庫)所収。

 http://www.aga-search.com/904-4dog.html

 貧しい生い立ちから苦労して大統領になった立志伝中の人物。選挙中に11歳の少女から届いた手紙のアドバイスにしたがい、ヒゲを生やすことにした、風采のあがらない、身長193cmの歴代大統領で一番背の高いのっぽのおじさん。ジョージ・ワシントンとならんで、今でもアメリカ人に愛される大統領の一人である。
 リンカーンの誕生日の2月12日はアメリカの30州で祝日となっている(2月第1月曜日とする州もある)。50全州ではないのは、南北戦争で北軍と戦った南部諸州では、今でも祝日になっていないためである。