1961年4月11日、 イスラエルでユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンの裁判を開始。12月に死刑判決。

 アドルフ・アイヒマン。ナチス親衛隊中佐。第2次大戦中、その指揮のもと強制収容所で殺されたユダヤ人は600万人。「ユダヤ人問題に関する最終解決策」といわれるホロコーストの兵站作業の責任者として、強制収容所への人々の識別および輸送を統率したため、「第三帝国の主任死刑執行人」とも呼ばれる。

 敗戦時、米軍に拘束されるが、捕虜集世所から脱走。1960年、アルゼンチンのブエノスアイレスにリカルド・クレメントと名乗って家族とともに潜伏しているところを、イスラエル秘密警察(モサド)に突き止められ、勤務先から帰宅途中、強制的に連行され、イスラエルまで拉致された。
 裁判は1961年のこの日、世界が注視するなかでエルサレムで開始された。翌年5月に死刑が執行された。この裁判は、モサドの執拗な追跡、他国の主権を無視した逮捕と連行、公判中のアイヒマンの「一人の死は悲劇であっても、数百万の死は統計上の問題にすぎない」などの発言で有名になった。
 1962年6月1日に死刑執行。

 「死体の製造に従事した人間を絞首刑にしても、何の意味もない」(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』)

 ハンナ・アーレント(1906−1975)は、『ニューヨーカー』の特派員としてこのアイヒマン裁判を傍聴して、膨大な資料を駆使してこのアイヒマン裁判を検証する。もちろん、アイヒマンの罪は疑いようがなのであり、極刑以外の道はありえないだろうことは、アレントも認めている。しかし、アーレントにとっては、なぜナチスの強制収容所の謎について明らかにするほうが、はるかに重要なことだった。

 アーレントが世界的に注目された最初の著作は、『全体主義の起源』(1951年)である。この著作でアーレントは、ナチズムとスターリニズムを共に同じ時代軸において撃つための、「全体主義」という明確な概念を与えた最初の思想家だった。このためアーレントには「反共主義者」のレッテルが貼られた。この『イェルサレムのアイヒマン』も、欧米を席巻する激しい論争をまきおこす。

 その理由はいくつかあげられるが、強制収容所におけるユダヤ人組織のナチスへの協力ぶりを「暴露」したことがあるだろう。数千人の人員しか持たないナチスの機関が、数十万人ものユダヤ人を絶滅収容所に送ることができたのは、ユダヤユダヤ評議会の指導者の協力があったからである。そしてアイヒマンは、このユダヤ人の協力のもとに、自分の「仕事」を進めることができた。数千人のユダヤ人を救うために、数十万人のユダヤ人が「選別」されたのである。

 ハンナ・アーレント自身も、ナチスの政権獲得後にパリに亡命して、後にアメリカに移り住んだユダヤ人である。ベンヤミンを通じた友人で、ユダヤ人思想家ショーレムは、「あなたにはユダヤ社会に対する愛が感じられない」と批判する。「愛するハンナよ……われわれの中のだれが、いま、あの状況下で、ユダヤ人のコミュニティーの指導者たちがどういう決定すべきだったかをいえるでしょうか?」

 しかしそれをいうのならば、「私はただ上官の命令に従っただけだ」と言い張りつづけた、けっして謝罪しない無恥きわまりないアイヒマンも、同じでないだろうか。アイヒマンは特異な思想を持つのではなく、サディストでもなく、人格障害者でもなく、ごく普通のドイツ人であった。

 『全体主義の起源』を執筆したアーレントは、ナチズムの成立をヨーロッパ文化の突然変異ととらえるような考え方を強く否定している。「この本をヨーロッパへの19世紀への、すなわちドイツで全体主義を結晶させることになった諸要素をつくり出した『ブルジョワの世紀』への正面攻撃と考えていた」(『ハンナ・アーレント伝』晶文社)。アーレントの問題提起は、今日でもはかり知れないほどの重要さを持っている。