1947年4月7日、労働基準法が公布される。

 日本国憲法27条で勤労条件に関する基準を法で定めるとしているため、これに基づいて包括的に労働者を保護する労働基準法が制定され、この日公布される。

 法律の条文はむずかしい。以下の口語訳サイトを紹介しておきたい。

労働基準法 わかりやすく逐条解説
http://www.roudou.net/law_ki2.htm


 まず最初におさらいしておこう。資本制経済の下で成り立つ市民社会は、以下の三つの原理で支えられている。
 「私的所有権の保障」
 「契約の自由」
 「過失責任」

 これを市民社会における三大原則という。しかし、「契約の自由」の原則は、労働賃金や条件の劣悪な条件も、「当人同士の自由な意思に基づく合意」であることになってしまう。一方的な採用拒否や解雇も、「契約の自由」で正当化されてしまう。また、過失責任の原則は、労働災害に遭った労働者が経営者から賠償をうけることを困難にする。また労働組合の結成やストライキその他の団体交渉は、「取引の自由」を妨害する妨害行為として、また労働契約上の義務違反として、犯罪になってしまうだろう。

 しかし飢える自由は自由ではありえない。労働基準法を含む労働法は、市民社会の基本原理を部分的に修正ないし回復して、労働者と経営者の間に「対等」な立場を保障して、市民社会の原理を回復する。

 もちろん、階級的視点に立つのならば、このような市民社会の原理は「擬制」「幻想」にすぎない。しかし圧倒的大多数が労働組合に所属していない日本の労働者の権利を守ってきたのも、この「労働基準法」であったのもまちがいない。

 厚生労働省が2004年12月に発表したデータによると、労働組合への加盟率(組織率という)は、19.2%である。
 2004年6月末現在の単位労働組合数は6万2805組合で、前年に比べて1.8%減少。組合員数は前年から22万2000人(2.1%)減少しうた。推定組織率は19.2%で前年比0.4ポイント低下した。パート労働者の組合員数は36万3000人(前年比9.5%増)で、推定組織率は3.3%(同 0.3ポイント増)となっている。

  ▽連合事務局長談話
  http://www.jtuc-rengo.or.jp/new/iken/danwa/2004/20041214.html
  ▽全労連事務局長談話
  http://www.zenroren.gr.jp/jp/opinion/2004/danwa20041214_01.html


 この労組の組織率の低下は、リストラの影響、派遣労働者が増えたり、パート労働の増加などが理由だ、といわれている。こんにち、労働組合が組織しているのは、2割にも満たない。しかもこの組織労働者の大多数を占めるのは、官公労と民間大手の企業内組合である。100人以下の中小・零細企業では、労働組合はあるかなきに等しいだろう。

 イギリスでは労働組合の影響力をそぐために行われたのが、労働組合法の改悪だった。伝統あるイギリスの労働組合は、今でこそ30%台あるかどうかだが、1976年には54.9%、過半数を超えていた。(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/uniondensity.html)
さらに産業別に組織されている労働組合(産別労組)の主力で、産業別に決定された労働条件がその産業全体を規制し波及する仕組みになっていた。未組織労働者もその影響力圏に入っている。だから「行政改革」では、労働組合法改悪が問題の核心点となったわけだ。

 しかし日本の場合は、労働組合法に手をつける必要はない。1977年には33.2%。さらに、企業別組合がメインなのだから。経営者を規制してきたのは、労働基準法と職業安定法である。労働者保護のための最低基準、つまりこれ以下で働かせてはならないという労働基準の規制――をいかにゆるめるか、これが経営側の最大の関心事となってきた。

 80%以上の未組織労働者が既成労組運動の影響力外にいる。そして、どうにか労働基準法によって「保護」されている。

 ポスト産業資本主義−−「脱工業化社会」「高度情報化社会」「第3の波」論者の立ち位置により、呼び方は異なるが−−製造業から第3次産業(サービス産業)に、この社会がシフトしている。現在の労働組合がたかがゆるんだ生産点主義の発想から脱却できずに、産業構造の変化、労働者の意識に対応できていない。

 もちろん、労組もようやく気がつき始めた。最近では、日本最大の労組「連合」も重い腰をあげて、パートや派遣労働者の組織化を−−スローガンだけでも −−言うようになっている。個人加盟のユニオン、また管理職ユニオンや失業者ユニオンも新しい動きだろう。ポスト産業資本主義において、労働組合はどのようにあるべきか。はっきりしているのは、時代に適応しそこなった左翼政党・党派はアンモナイトのように滅びるに任せておけばよいが、抑圧のある限り闘争もまた不可避であるということである。