1928年3月25日、全日本無産者芸術聯盟(ナップ)結成される。

 戦争の危機を目前にした1928年3月13日、左翼系な芸術団体のゆるやかな連合体である日本左翼文芸家総聯合が誕生する。しかしそのわずか2日後に、共産党への一斉弾圧3・15事件が発生する。この危機のなかで、共産党支持の立場に立つ前衛芸術家同盟とプロレタリア芸術聯盟が合同して、ナップが結成された。小林多喜二『蟹工船』、徳永直『太陽のない街』などプロレタリア文学の傑作が掲載された『戦旗』はナップの機関誌である。
さて、ナップに所属してプロレタリア芸術運動に参加した画家志望の青年に、後の映画監督の黒澤明がいた。プロレタリア大美術展には水彩「建築場に於ける集会」、油絵「農民習作」「農民組合へ」などが出品されたという。
  
 黒澤は当時をこう振り返る。「私は、『資本論』『唯物史観』を読んでも、解らないところが多かったから、その立場で日本の社会を分析し解釈するのは無理だった。私は、ただ、日本の社会に漠然たる不満と嫌悪を感じて、ただそれに反抗するために、最も反抗的な運動に参加したのだ。今考えると、随分、軽率で乱暴な行為だ。しかし、私は昭和七年(一九三二年)の春まで、この道を進む。」(黒澤明『蝦蟇の油』岩波書店)
   
 黒澤は画家の道を断念して、26歳でPCL(現・東宝)の助監督として映画の仕事を始める。18歳で二科展に入選した「画家・黒澤明」の才能は、「どですかん」のポスターや、画集「影武者」で遺憾なく発揮されている。黒澤の初監督作品『姿三四郎』が封切りされたのも、1943年のきょう、 3月25日のことである。